2023年9月6日水曜日

2023年9月6日の聖句

互いに真実を語り、あなたがたの門で真実と平和の裁きを行え。(ゼカリヤ8:16)
平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。(ローマ14:19)

今日の御言葉には、旧約にも新約にも「平和」という言葉が登場してきています。改めて、平和とは一体何か、というのは案外難しい問いではないかと思います。戦争がないこと、犯罪がないこと、ある程度の生活が保障されていること・・・など、確かにとても大切なことです。そして私たちは多くの場合それらを享受しているし、現に同時代に生きる人々の中でもそれらに浴することのできない人がたくさんいることを私たちは知っています。しかし平和に生きていると思われる私たちにとっても、「平和」というのは決して当たり前のことではないのではないか、とも思います。
考えてみると、一見すると平和に見える社会が、実はある人の犠牲の上に成り立っているということがあります。外国で人件費を不当に安くすることによって成り立つ低価格の商品や、自分の遠い場所の環境を破壊して得られる安価な食品。ある一部の地域に極端に偏った負担で成立する防衛やエネルギー政策。考えてみればいろいろな形の犠牲がありえます。家庭でも学校でも職場でも、いろいろなかたちでの犠牲が知れません。誰かを犠牲にしていても、それは平和と呼べるのでしょうか?
「平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。」ここでこの手紙を書いた使徒パウロは「追い求めよう」と訴えます。平和を追い求めよう。互いを築き上げるのに役立つことを思い求めよう。平和は私たちにとって既に得たものではなく、追い求めるものです。しかもここで「役立つ」という言葉を重ねているところに、奥ゆかしさを感じます。少しでも平和に役立つことを追い求めよう。私たちは不完全だということを誰よりも知り抜いている人が書いた手紙です。しかし平和への願いを神がかなえてくださるということを信じ、神に期待しながら、この手紙を書いたに違いないのです。
旧約ではこのように言っています。「互いに真実を語り、あなたがたの門で真実と平和の裁きを行え。」ここに「門」とあります。門は町の中で長老が集まって裁きをする場所でした。今で言えば裁判所であり、議会であり、役所のような機能を持っていた。そういう場所で真実と平和の裁きが行われる。そのこともまた私たちにとっては祈りの課題です。この社会が真実と平和によって打ち立てられるように。ですから、単純な心で神様に祈ってみませんか。平和を来たらせてください、と。

2024年5月9日の聖句

主は彼らに喜びを与えられた。(エズラ6:22) いつも喜んでいなさい。(1テサロニケ5:16) 復活の主日から40日目の今日は、主の昇天を祝う日として覚えられています。主イエス・キリストは、弟子たちの見ている前で天に昇って行かれたと聖書に書かれています。キリストは天に昇り、神の右...