主よ、憐れんでください。私は苦しんでいます。(詩編31:10)
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。(マタイ8:25~26)
「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」そう言って主イエスに助けを求める弟子たちに、主イエスがおっしゃった言葉は予想外に厳しいものでした。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」弟子たちの言葉は不信仰から生まれる言葉だ、と言います。こう言われてしまうと怯んでしまうほどの言葉です。私たちも同じように祈るのではないでしょうか。「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」「主よ、憐れんでください。私は苦しんでいます。」そういう祈りを不信仰だとなじられてしまっては、もう二の句が継げません・・・。
今日の聖句の冒頭を見ると、「弟子たちは近寄って起こし」と書いてあります。この「起こし」という小さなひと言が大事だと思います。起こしたというからには、主イエスは眠っておられたことになります。これはガリラヤ湖での出来事です。主イエスと弟子たちとが一緒に舟に乗り込んだ。すると湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになってしまいました。ところが主イエスは眠っておられる。どうして主は眠っておられるのか。私たちが溺れ死んでも構わないのか。そう思って、彼らは起こしたのです。「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」
主イエスが不信仰だとおっしゃったのは、彼らが、イエスは眠っておられて自分たちのために何もしてくださらないと思い込んでいたからです。この時の弟子たちの置かれた状況は、私たちが今生きている状況とよく似ています。私たちもどんな嵐に遭い、どんなに船が転覆してしまいそうになっても、主イエスが起き上がって助けてくださるということをなかなか経験できない。主イエスが目に見えてここにおられるというわけではないのです。まるで眠りこけておられるかのように、主は私たちを助けてくださらない・・・。「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」
主イエスが不信仰とおっしゃったのは、私たちの信仰が眠りこけているからです。主は、まるで眠っていて、ここにおられないかのように、何もしていないのではありません。この方は私たちには見えなくても、今日も生きて働いておられます。私たちのために今日も働いておられます。なぜそのことを信じないのか、と主イエスは言われる。私たちに見えずとも今日も働いておられる方を信頼することを、主は私たちに求めておられます。
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。(マタイ8:25~26)
「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」そう言って主イエスに助けを求める弟子たちに、主イエスがおっしゃった言葉は予想外に厳しいものでした。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」弟子たちの言葉は不信仰から生まれる言葉だ、と言います。こう言われてしまうと怯んでしまうほどの言葉です。私たちも同じように祈るのではないでしょうか。「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」「主よ、憐れんでください。私は苦しんでいます。」そういう祈りを不信仰だとなじられてしまっては、もう二の句が継げません・・・。
今日の聖句の冒頭を見ると、「弟子たちは近寄って起こし」と書いてあります。この「起こし」という小さなひと言が大事だと思います。起こしたというからには、主イエスは眠っておられたことになります。これはガリラヤ湖での出来事です。主イエスと弟子たちとが一緒に舟に乗り込んだ。すると湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになってしまいました。ところが主イエスは眠っておられる。どうして主は眠っておられるのか。私たちが溺れ死んでも構わないのか。そう思って、彼らは起こしたのです。「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」
主イエスが不信仰だとおっしゃったのは、彼らが、イエスは眠っておられて自分たちのために何もしてくださらないと思い込んでいたからです。この時の弟子たちの置かれた状況は、私たちが今生きている状況とよく似ています。私たちもどんな嵐に遭い、どんなに船が転覆してしまいそうになっても、主イエスが起き上がって助けてくださるということをなかなか経験できない。主イエスが目に見えてここにおられるというわけではないのです。まるで眠りこけておられるかのように、主は私たちを助けてくださらない・・・。「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」
主イエスが不信仰とおっしゃったのは、私たちの信仰が眠りこけているからです。主は、まるで眠っていて、ここにおられないかのように、何もしていないのではありません。この方は私たちには見えなくても、今日も生きて働いておられます。私たちのために今日も働いておられます。なぜそのことを信じないのか、と主イエスは言われる。私たちに見えずとも今日も働いておられる方を信頼することを、主は私たちに求めておられます。