あなたがたは、私たちの神、主と心を一つにしなければならない。(列王記上8:61)
(パウロの手紙)後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:13~14)
すごく前向きな言葉です。元気づけられる人も、却ってまぶしすぎて目を背けたくなる人もいるかもしれません。後ろのものを忘れられたらどんなに善いだろう、前のものに全身を向けられたらどんなに楽だろう。そう思ってしまうことだってあるのではないかと思います。
しかし、それでもなおこの御言葉に力を頂いているということも、私たちの現実だと思います。それは、「神がキリスト・イエスによって上へと召して」という言葉から来る力ではないかと思います。神さまが私たちを上へと招いてくださっている。「上」というのは、もちろん、ご自分のおられるところへ、という意味でしょう。しかもそれを「キリスト・イエスにあって」と言います。この言葉がなかったら絶望的です。しかし神はキリストにあって私たちをご自分のところへ招いてくださっている。だから、やはりこの御言葉は慰めではないでしょうか。
この「キリスト・イエスによって」という言葉は「キリスト・イエスの中で」という字を書きます。神は私たちを上へ召すために、私たちをキリスト・イエスの中に置いてくださっている。そうすると、神のもとへ招くためにキリストの中にいさせてくださっている、ということになる。私たちは、今既にキリストの中に置かれているし、キリストの中に生かされている者として神の御もとへ走って行く、と言うのです。
だから、私たちは後ろのものを忘れます。私たちをキリストのものとしてくださった神さまに心を向けます。そこに私たちの喜びがあるから。慰めがあるから。私たちをキリストの中に生かしてくださっている神が、私たちを迎えてくださっているからです。
(パウロの手紙)後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:13~14)
すごく前向きな言葉です。元気づけられる人も、却ってまぶしすぎて目を背けたくなる人もいるかもしれません。後ろのものを忘れられたらどんなに善いだろう、前のものに全身を向けられたらどんなに楽だろう。そう思ってしまうことだってあるのではないかと思います。
しかし、それでもなおこの御言葉に力を頂いているということも、私たちの現実だと思います。それは、「神がキリスト・イエスによって上へと召して」という言葉から来る力ではないかと思います。神さまが私たちを上へと招いてくださっている。「上」というのは、もちろん、ご自分のおられるところへ、という意味でしょう。しかもそれを「キリスト・イエスにあって」と言います。この言葉がなかったら絶望的です。しかし神はキリストにあって私たちをご自分のところへ招いてくださっている。だから、やはりこの御言葉は慰めではないでしょうか。
この「キリスト・イエスによって」という言葉は「キリスト・イエスの中で」という字を書きます。神は私たちを上へ召すために、私たちをキリスト・イエスの中に置いてくださっている。そうすると、神のもとへ招くためにキリストの中にいさせてくださっている、ということになる。私たちは、今既にキリストの中に置かれているし、キリストの中に生かされている者として神の御もとへ走って行く、と言うのです。
だから、私たちは後ろのものを忘れます。私たちをキリストのものとしてくださった神さまに心を向けます。そこに私たちの喜びがあるから。慰めがあるから。私たちをキリストの中に生かしてくださっている神が、私たちを迎えてくださっているからです。