2024年11月15日金曜日

2024年11月15日の聖句

人がその子を背負うように、あなたの神、主があなたを背負ってくださったのを、あなたは見た。(申命記1:31)
(弟子たちは)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(ルカ24:35)

今日の二つの御言葉は、どうしてこの組み合わせなのかと思わせるものです。主があなたを背負ってくださった。そして、パンを裂いてくださったときに主だと分かった、という弟子たちの言葉。この二つの御言葉にどういうつながりがあるのか。
新約聖書はエマオへの道を主と共に歩んだ二人の弟子たちの言葉です。主イエスが復活した日の午後、エルサレムからエマオへ歩く二人の弟子たち。彼らは暗い顔をして歩いていました。そこに一人の男が近づいてきた。どうして暗い顔をしているのか。尋ねられるままに二人はこの数日間の出来事を話します。三日前にイエスが十字架にかけられたこと、今朝になって仲間の女たちが、「イエスは生きておられる」と言い出したこと。彼らはその復活の知らせを聞いて戸惑い、顔が暗くなっていたのです。その言葉を聞いた見知らぬ男、つまり主イエスは、エマオへの道すがら二人に聖書をときあかし、メシアは苦しみを受けて、栄光に入るはずだったと話してくださった。
エマオに着き、三人は共に食卓を囲みました。イエスがパンを裂いてそれを与えてくださったとき、彼らはそれが主であることに気付いた。エマオへの途上、主が聖書を話してくださったとき、私たちの心は燃えていた!そう語り合ってエルサレムへ戻り、仲間たちに言ったのです。「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」
ここまで新約の御言葉を読んで気付きます。あのエマオへの途上はすべて、主イエスに背負って頂いた道だった、と。主イエスご自身の背に乗せられ、信仰への道を運ばれていた。主が語り、主がパンを裂き、その恵みにあずかる道は、主の背中での歩みです。私たちは自分で歩いているようなときにも主に負われている。今日のあなたの祈りの道も、主が折ってくださっている恵みの道です。

2025年4月5日の聖句

主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めます。(サムエル上2:7) あなたがた一人ひとりに言います。分を超えて自らを買いかぶったり過信したりしてはなりません。むしろ冷静な自己評価に努めなさい。そうして、それぞれが神の各自に対してお定めになったように、また信仰の基準にふさわしいよ...