2025年3月21日金曜日

2025年3月21日の聖句

主は、へりくだる人に恵みを与える。(箴言3:34)
また、使徒たちの間に、自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか、という言い争いも起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の王たちはその民を支配し、民の上に権力を振るう者が恩人と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカ22:24~26)

使徒たちは、自分たちのうちで誰がいちばん偉いかと言い争いをしました。「偉い」と翻訳されている言葉は「大きい」とも訳すことのできる言葉です。自分たちの中でいちばん大きいのは誰か。人が集まると、心の中で順位付けや序列付けが沸き起こります。年齢や経験、暮らしぶりや経歴など、いろいろな尺度があります。その中で私たちは優越感を覚えたり劣等感を覚えたりする。あの人と自分との「大きさ」を比較して、自分の大きさを測ろうとします。
私たちはとても相対的な存在です。ほかの人と比較しないと自分の大きさが分からないところがある。しかし今日の御言葉から気付かされることは、そういう私たちの心の中で起こる比較はあまり当てにならないということです。使徒たちは自分たちの大きさで言い争いをしました。自分こそがいちばん偉いと全員が思っていたということでしょう。私たちの尺度はとてもいい加減です。
ところが主イエスは私たちのそういう価値基準を全くひっくり返してしまわれます。いちばん若い者のようにへりくだり、仕える者のように他者に尽くせ、とおっしゃる。そこではもう比較は役に立ちません。他人の大きさで自分を測ること、あるいはその逆に自分と比較して他人の価値を決めることをやめてしまう。ただキリストの前でだけ生きる。神の子キリストの前でこそ、私たちは自分の大きさに気付くのではないでしょうか。このようなからし種のような者をキリストが目に留め、愛してくださった。その事実を畏れ、感謝し、主の御前にへりくだる。そこに私たちの生きる道があるのです。

2025年4月1日の聖句

4月の聖句: あのお方が私たちと共にいてお話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。(ルカ24:32) 今日の聖句: 主は、虐げられている人のために裁きを行い、飢えた人にパンを与える。(詩編146:7) 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備え...