集会の中で神をたたえよ。(詩編68:27)
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。(使徒2:46~47)
今日の新約に出て来る「宮」というのは、神殿のことです。最初の弟子たちはペンテコステの出来事の後、毎日宮に集まっていました。共に祈るためでしょう。「家々」というのも出てきます。当時はまだ教会堂という専用の建物はありませんでしたから、キリスト者の仲間の誰かの家に集まって礼拝していたのでしょう。しかも「家々」と複数形になっているので、そういう家の集会がたくさんあったのでしょう。いろいろな場所で神を賛美し、祈り、礼拝する営みが始まっていた。
しかし場所はいくつあっても、集まってしたこと一つです。彼らは「パンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し」。パンを裂いた。明らかに聖餐のことです。主イエスの復活、そして昇天。その後すぐに教会は聖餐を始めていました。あの最後の晩餐からまだほんの数ヶ月のことです。主イエスが私たちのためにご自分の肉を引き裂いてくださったこと、血を流してくださったことを思い起こす営み。聖餐。これによって私たちは神を礼拝します。十字架にかけられたキリストを仰ぐことこそが、キリスト教会の歴史の最初からの礼拝の営みでした。
そして、彼らは食事を共にしていました。主イエスは、ザアカイや徴税人、罪人たちと喜んで食事をともになさいました。共に食事を頂くことは、共に生きることです。そういう営みがキリスト教会の最初から、たくさんの家々で織りなされていた。そうやって共に信じ、共に神を礼拝し、共に生きるキリスト教会は、「民全体から好意を持たれていた」のです。神様の民としての新しい歩みがここに始まったのです。
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。(使徒2:46~47)
今日の新約に出て来る「宮」というのは、神殿のことです。最初の弟子たちはペンテコステの出来事の後、毎日宮に集まっていました。共に祈るためでしょう。「家々」というのも出てきます。当時はまだ教会堂という専用の建物はありませんでしたから、キリスト者の仲間の誰かの家に集まって礼拝していたのでしょう。しかも「家々」と複数形になっているので、そういう家の集会がたくさんあったのでしょう。いろいろな場所で神を賛美し、祈り、礼拝する営みが始まっていた。
しかし場所はいくつあっても、集まってしたこと一つです。彼らは「パンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し」。パンを裂いた。明らかに聖餐のことです。主イエスの復活、そして昇天。その後すぐに教会は聖餐を始めていました。あの最後の晩餐からまだほんの数ヶ月のことです。主イエスが私たちのためにご自分の肉を引き裂いてくださったこと、血を流してくださったことを思い起こす営み。聖餐。これによって私たちは神を礼拝します。十字架にかけられたキリストを仰ぐことこそが、キリスト教会の歴史の最初からの礼拝の営みでした。
そして、彼らは食事を共にしていました。主イエスは、ザアカイや徴税人、罪人たちと喜んで食事をともになさいました。共に食事を頂くことは、共に生きることです。そういう営みがキリスト教会の最初から、たくさんの家々で織りなされていた。そうやって共に信じ、共に神を礼拝し、共に生きるキリスト教会は、「民全体から好意を持たれていた」のです。神様の民としての新しい歩みがここに始まったのです。