2025年4月22日火曜日

2025年4月22日の聖句

私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちのすべての過ちを、主は彼に負わせられた。(イザヤ53:6)
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。(1ペトロ2:24)

羊のようにさまよい、迷子になっているのに自分の道にこだわっている私たち。神様の御許から離れているのに、それが過ちだと認めようとしない私たち。その私たちの過ちのすべてを、主はキリストの上に負わせられた。主イエス・キリストが私たちの罪のすべてをその身に負ってくださった。
「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」、と聖書は言います。キリストは私たちを新しくするために、その身に私たちの罪をすべて負ってくださった。私たちがなお罪と悪にこだわり続けるためではなく新しいものとして生きるために、キリストが古い私をご自分と一緒に十字架につけてくださった。
昨日、ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコが亡くなりました。この教皇が「回勅 ラウダート・シ」という文書を出しています。人間の活動によって環境的な、そして社会的な危機に直面した私たちはどう生きるのか、私たちが担うべき責任とは何か、ということについて書かれています。例えばこのような問題においても、キリストの十字架と復活という新しい現実に生きているという事実が意味を持ちます。私たちをこれまで支配してきた罪と死と悪の物語は過ぎ去ってキリストの命の物語に私たちも巻き込まれている、という新しい現実に目を向けるとき、私たちはどう生きるのか?このキリストの命がかけられた世界のために、私たちは何をするのでしょうか。

2025年7月14日の聖句

(ソロモンの言葉)見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(列王記上8:27) まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:23) ソロモンが建てた神殿は一体どのような建物だったのでしょ...