我らの神のほかに誰が大岩であろうか。(詩編18:32)
(パウロの手紙)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りとすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。これからも救ってくださる違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:9~10)
パウロが「私たちとしては死の宣告を受けた思いでした」と言っていますが、ただならぬ言葉です。どうしてそのようなことを言っているのか。これに先立つ8節で、パウロはこのように言います。「きょうだいたち、私たちがアジアで遭った苦難について、ぜひ知っておいてほしい。私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて生きる望みさえ失い」と言っているのに続いて、今日の御言葉に至ります。「私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて生きる望みさえ失い、私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。」
迫害によって蒙った耐えられないほどの苦難。生きる望みを失った。しかし、そのようなとき、パウロは自分を頼りにはしなかった。自分を奮い立たせたり、根性で乗り切ろうとしたり、それは無理だと言って諦めたり。そのようなことをしなかった。神を頼りとしました。しかも、「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」と言っています。
キリストの復活の信仰が、パウロ自身の苦難の中で意味を持ったのです。キリストを死者の中から甦らせた神は私をもこの苦難から救ってくださる。パウロはそのことを信じていました。神は私をお見捨てにならない。パウロは神に望みを置いていました。キリストが十字架の上で死に、復活したという事実こそ、私の望みを確かなものとする保証に他ならない。私たちの前に立つ一人の信仰者が、私たちにそう証しします。
(パウロの手紙)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りとすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。これからも救ってくださる違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:9~10)
パウロが「私たちとしては死の宣告を受けた思いでした」と言っていますが、ただならぬ言葉です。どうしてそのようなことを言っているのか。これに先立つ8節で、パウロはこのように言います。「きょうだいたち、私たちがアジアで遭った苦難について、ぜひ知っておいてほしい。私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて生きる望みさえ失い」と言っているのに続いて、今日の御言葉に至ります。「私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて生きる望みさえ失い、私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。」
迫害によって蒙った耐えられないほどの苦難。生きる望みを失った。しかし、そのようなとき、パウロは自分を頼りにはしなかった。自分を奮い立たせたり、根性で乗り切ろうとしたり、それは無理だと言って諦めたり。そのようなことをしなかった。神を頼りとしました。しかも、「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」と言っています。
キリストの復活の信仰が、パウロ自身の苦難の中で意味を持ったのです。キリストを死者の中から甦らせた神は私をもこの苦難から救ってくださる。パウロはそのことを信じていました。神は私をお見捨てにならない。パウロは神に望みを置いていました。キリストが十字架の上で死に、復活したという事実こそ、私の望みを確かなものとする保証に他ならない。私たちの前に立つ一人の信仰者が、私たちにそう証しします。