主にとって不可能なことがあろうか。(創世記18:14)
11人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。(マルコ16:14)
主イエスさまが復活したとき、弟子たちはその知らせを信じませんでした。聖書はそのことを赤裸々に報告しています。
「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、このこと(イエスの復活の知らせ)を知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たことを聞いても、信じなかった」(マルコ16:10,11)。
11人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。(マルコ16:14)
主イエスさまが復活したとき、弟子たちはその知らせを信じませんでした。聖書はそのことを赤裸々に報告しています。
「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、このこと(イエスの復活の知らせ)を知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たことを聞いても、信じなかった」(マルコ16:10,11)。
「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」(マルコ16:12,13)。
そして、今日の箇所では主イエスご自身が11人のところに来てくださった。そして、彼らの不信仰とかたくなな心とをおとがめになった、というのです。これはある意味意外なことではないでしょうか。十字架に掛けられた主イエスがお甦りになり、愛する弟子たちと再会を果たした。そこで再会の喜びを分かち合い、お互いの無事を確認する・・・ということではなかったのです。主イエスは彼らの不信仰を見逃さず、これを咎めたのです。
主イエスからご覧になったとき、私たちの不信仰は決して見過ごしたりなあなあにして済ませてよい問題ではない。必ず問題にし、咎め、是正されなければならない大きな問題です。私たちは、私たちに出会ってくださるキリストに信仰で応えるからです。復活して私たちのところへ来てくださるキリストの福音を聴き、信じることで私たちはキリストに応える。だから、信仰が弱く、小さくなってしまうことを主イエスは「どうでも良いような小さいこと」とはお考えにならない。私たちに、ほかの何でもなく信仰を求めておられるのです。
信仰をもって主に向かいましょう。信じましょう。ここに救いがある。ここに私たちのための神の愛がある。そのことを信じて、キリストに目を上げましょう。
そして、今日の箇所では主イエスご自身が11人のところに来てくださった。そして、彼らの不信仰とかたくなな心とをおとがめになった、というのです。これはある意味意外なことではないでしょうか。十字架に掛けられた主イエスがお甦りになり、愛する弟子たちと再会を果たした。そこで再会の喜びを分かち合い、お互いの無事を確認する・・・ということではなかったのです。主イエスは彼らの不信仰を見逃さず、これを咎めたのです。
主イエスからご覧になったとき、私たちの不信仰は決して見過ごしたりなあなあにして済ませてよい問題ではない。必ず問題にし、咎め、是正されなければならない大きな問題です。私たちは、私たちに出会ってくださるキリストに信仰で応えるからです。復活して私たちのところへ来てくださるキリストの福音を聴き、信じることで私たちはキリストに応える。だから、信仰が弱く、小さくなってしまうことを主イエスは「どうでも良いような小さいこと」とはお考えにならない。私たちに、ほかの何でもなく信仰を求めておられるのです。
信仰をもって主に向かいましょう。信じましょう。ここに救いがある。ここに私たちのための神の愛がある。そのことを信じて、キリストに目を上げましょう。