子をいとおしむ父のように、主は愛する者を懲らしめる。(箴言3:12)
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。(ルカ15:32)
「喜び祝うのは当然ではないか。」失われた息子の譬え話の父、すなわち神さまは、ここで「当然」とおっしゃいます。死んでいたのに生き返った息子、いなくなっていたのに見つかった「お前のあの弟」のことを喜び祝うのは当然ではないか。
ところが兄息子にとっては、父の当たり前は自分の当たり前ではありませんでした。帰って来た弟を拒み、息子の生還を喜ぶ父を受け入れられませんでした。兄から見て父は不公平で不公正でした。
「子をいとおしむ父のように」と聖書は言います。神は私たちを父のように慈しんでくださいます。それどころか、どんな人間の父よりももっと深くいとおしみ、深い憐れみをもって愛してくださいます。神さまのその深い御心は、私たちにとっては時として受け入れがたく、不公正です。神さまの愛は私たちにとっての「当然」からは大きく外れているのです。
神さまの「当然」とおっしゃる深い憐れみを喜ぶ私でありたい、と願います。神さまが、どんなものであっても愛して当たり前だとおっしゃるのを受け入れて、一緒に喜ぶ私でありたい、と願います。神の喜びが結び合わせ、一つとしてくださる共同体こそ、教会です。神が深い憐れみをもって喜んでくださっている者たち、それが私たちキリスト教会です。私たちからしたら常識を外れている神の喜びだけが私たちを生かしているのです。
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。(ルカ15:32)
「喜び祝うのは当然ではないか。」失われた息子の譬え話の父、すなわち神さまは、ここで「当然」とおっしゃいます。死んでいたのに生き返った息子、いなくなっていたのに見つかった「お前のあの弟」のことを喜び祝うのは当然ではないか。
ところが兄息子にとっては、父の当たり前は自分の当たり前ではありませんでした。帰って来た弟を拒み、息子の生還を喜ぶ父を受け入れられませんでした。兄から見て父は不公平で不公正でした。
「子をいとおしむ父のように」と聖書は言います。神は私たちを父のように慈しんでくださいます。それどころか、どんな人間の父よりももっと深くいとおしみ、深い憐れみをもって愛してくださいます。神さまのその深い御心は、私たちにとっては時として受け入れがたく、不公正です。神さまの愛は私たちにとっての「当然」からは大きく外れているのです。
神さまの「当然」とおっしゃる深い憐れみを喜ぶ私でありたい、と願います。神さまが、どんなものであっても愛して当たり前だとおっしゃるのを受け入れて、一緒に喜ぶ私でありたい、と願います。神の喜びが結び合わせ、一つとしてくださる共同体こそ、教会です。神が深い憐れみをもって喜んでくださっている者たち、それが私たちキリスト教会です。私たちからしたら常識を外れている神の喜びだけが私たちを生かしているのです。