主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。(出15:1)
私は霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。(1コリント14:15)
神さまは憐れみ深いお方です。私たちの憐れみに満ちた父でいてくださいます。このお方は、私たちが献げるほめ歌、賛美の歌を喜んで聞いてくださいます。主が私たちに傾けてくださる耳の恵みのなんと深いことでしょう。私たちのほめ歌に耳を傾けてくださるのですから。
「主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。」賛美の心は、驚きの心です。「なんと偉大で、高くあられる方。」私たちを見いだし、思いを寄せてくださり、愛し、救ってくださる神さまの偉大さ。このお方はただ高いところにおられるだけではなく、低きに下って私たちと共に歩んでくださり、私たちを救ってくださるお方です。この神の偉大な御業のために、私は今日も生かされている。
今日の新約では、霊と理性という言葉が出てきます。理性の方がすぐに意味が分かります。霊というのはどういうことでしょうか。コリントの信徒への手紙の前後を読んでみると、ここでは「異言」の話をしています。異言というのは、理性によっては理解することのできない特別な祈りの言葉です。誰にでも口にすることができるわけではない、また、誰にでも解釈することができるわけではない。パウロは、この手紙で、「異言はその言葉の特性のゆえに他人を造り上げるわけではない。自分を造り上げる言葉だ」、という趣旨のことを言います。だから、他人にも分かる「預言」の言葉を語る方が良い、と言っています。今日の箇所の「霊で祈る」というのは異言の祈りのことであろうと思います。それに対して、「理性で祈る」というのは、誰が聞いても意味の分かる、他人を立て上げるような祈りの言葉、ということであると思います。
つまり、霊で祈り理性で祈るというのは、人間の心のありとあらゆる次元で祈る、ということであろうと思います。感情の発露や理性の深まり、霊の衝動や情動の動き。そういったすべてをもって神を賛美する。私のすべてをもって賛美するべき、偉大な神。私のすべてを献げる高きにいます神。このお方をほめたたえる。ここに私たちの賛美があるのです。
私は霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。(1コリント14:15)
神さまは憐れみ深いお方です。私たちの憐れみに満ちた父でいてくださいます。このお方は、私たちが献げるほめ歌、賛美の歌を喜んで聞いてくださいます。主が私たちに傾けてくださる耳の恵みのなんと深いことでしょう。私たちのほめ歌に耳を傾けてくださるのですから。
「主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。」賛美の心は、驚きの心です。「なんと偉大で、高くあられる方。」私たちを見いだし、思いを寄せてくださり、愛し、救ってくださる神さまの偉大さ。このお方はただ高いところにおられるだけではなく、低きに下って私たちと共に歩んでくださり、私たちを救ってくださるお方です。この神の偉大な御業のために、私は今日も生かされている。
今日の新約では、霊と理性という言葉が出てきます。理性の方がすぐに意味が分かります。霊というのはどういうことでしょうか。コリントの信徒への手紙の前後を読んでみると、ここでは「異言」の話をしています。異言というのは、理性によっては理解することのできない特別な祈りの言葉です。誰にでも口にすることができるわけではない、また、誰にでも解釈することができるわけではない。パウロは、この手紙で、「異言はその言葉の特性のゆえに他人を造り上げるわけではない。自分を造り上げる言葉だ」、という趣旨のことを言います。だから、他人にも分かる「預言」の言葉を語る方が良い、と言っています。今日の箇所の「霊で祈る」というのは異言の祈りのことであろうと思います。それに対して、「理性で祈る」というのは、誰が聞いても意味の分かる、他人を立て上げるような祈りの言葉、ということであると思います。
つまり、霊で祈り理性で祈るというのは、人間の心のありとあらゆる次元で祈る、ということであろうと思います。感情の発露や理性の深まり、霊の衝動や情動の動き。そういったすべてをもって神を賛美する。私のすべてをもって賛美するべき、偉大な神。私のすべてを献げる高きにいます神。このお方をほめたたえる。ここに私たちの賛美があるのです。