突然の恐怖にも、おののくことはない。
主があなたの傍らにおられる。(箴言3:25,26)
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた。イエスはすぐに彼らに声をかけ、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。(マタイ14:26~27)
恐ろしい話だと思います。弟子たちがおびえています。主イエスを見て、「幽霊だ」と言っておびえたのです。私たちは、主イエスがここにおられるということを知って、主が共にいてくださるということでおびえてしまう。こんなところに主がおられるはずがない、ここに主が来られるはずがないと、あろうことか主イエスを見て「幽霊だ」と言っておびえてしまう。それは、恐ろしい事実です。
弟子たちはこの時、舟に乗って湖の上にいました。主は一緒にはいませんでした。弟子たちだけで舟に乗った。舟は逆風に悩まされていました。すると、主が水の上を歩いておられるのを見た。弟子たちは主を見て、「幽霊だ」と言って怯えたのです。確かに水の上を歩くことのできる人間なんていないわけで、そういう意味では「幽霊だ」と思うのも無理ないのかもしれません。しかし、主イエスさまが相手です。神の子でいらっしゃるお方です。「幽霊だ」といのは、主を侮っていたということ以外の何ものでもありません。
さらに言えば、主イエスが復活したという事実。主イエスは今も私たちと共にいてくださるという私たちの信仰。これを私たちはどれだけリアルに信じているのでしょうか?主イエスが私たちと共にいてくださるという事実を骨身に染みて知ったとき、私たちも「幽霊だ」と言って怯えてしまうのではないだろうか、主を侮って。
弟子たちの不信仰から生まれたおびえです。このおびえは、恐ろしい。私の不信仰を浮き彫りにする怯えです。主イエスが今生きて働いておられること、主が今日も御業を進めておられること。その事実を信じ、主に期待して生きていきたい、と考えさせられました。主を見くびることなく、信じたい。主がこの不信仰から生まれる畏れを取りさり、まっすぐな信仰を与えてくださいますように。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」そう語りかけ、私たちのおそれを取り去ってくださるのは主イエスさまご自身です。私たちには、私たちを不信仰から解放してくださるお方がおられるのです。
主があなたの傍らにおられる。(箴言3:25,26)
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた。イエスはすぐに彼らに声をかけ、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。(マタイ14:26~27)
恐ろしい話だと思います。弟子たちがおびえています。主イエスを見て、「幽霊だ」と言っておびえたのです。私たちは、主イエスがここにおられるということを知って、主が共にいてくださるということでおびえてしまう。こんなところに主がおられるはずがない、ここに主が来られるはずがないと、あろうことか主イエスを見て「幽霊だ」と言っておびえてしまう。それは、恐ろしい事実です。
弟子たちはこの時、舟に乗って湖の上にいました。主は一緒にはいませんでした。弟子たちだけで舟に乗った。舟は逆風に悩まされていました。すると、主が水の上を歩いておられるのを見た。弟子たちは主を見て、「幽霊だ」と言って怯えたのです。確かに水の上を歩くことのできる人間なんていないわけで、そういう意味では「幽霊だ」と思うのも無理ないのかもしれません。しかし、主イエスさまが相手です。神の子でいらっしゃるお方です。「幽霊だ」といのは、主を侮っていたということ以外の何ものでもありません。
さらに言えば、主イエスが復活したという事実。主イエスは今も私たちと共にいてくださるという私たちの信仰。これを私たちはどれだけリアルに信じているのでしょうか?主イエスが私たちと共にいてくださるという事実を骨身に染みて知ったとき、私たちも「幽霊だ」と言って怯えてしまうのではないだろうか、主を侮って。
弟子たちの不信仰から生まれたおびえです。このおびえは、恐ろしい。私の不信仰を浮き彫りにする怯えです。主イエスが今生きて働いておられること、主が今日も御業を進めておられること。その事実を信じ、主に期待して生きていきたい、と考えさせられました。主を見くびることなく、信じたい。主がこの不信仰から生まれる畏れを取りさり、まっすぐな信仰を与えてくださいますように。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」そう語りかけ、私たちのおそれを取り去ってくださるのは主イエスさまご自身です。私たちには、私たちを不信仰から解放してくださるお方がおられるのです。