あなたがたの道と行いを改めよ。そうすれば、私はあなたがたをこの場所に住まわせる。(エレミヤ7:3)
こういうわけで、あながたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬遠には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(2ペトロ1:5~7)
今日の新約聖書は、「信仰」ということから始まっています。この「信仰」はもう少しキチンと翻訳すると「あなたがたの信仰」と書かれています。ほかの誰でもなく、私たちが信じている信仰。それには「徳」が加えられなければならない。徳は、信仰よりもずっと一般的な響きがする言葉です。社会の中でも誰もが立派と認めるようなあり方という語感があります。そのような「徳」に「知識」が加えられる。自分自身のこと、相手のこと、社会のこと。様々なことをわきまえ、よく知っていることが求められています。そしてそのような「知識」には「節制」が必要だ、と言います。欲望に基づく知識ではなく、節制に向かう知識。「節制」に「忍耐」が求められるというのは、よく分かる気がします。しかもその「忍耐」は神様の御前に膝をかがめて崇め、へりくだってこのお方に祈る「敬虔」に裏打ちされた忍耐です。ただし、「敬虔」は「兄弟愛」がなければ、空しいものになってしまいます。独善的な、敬虔の名による自己満足になってしまう。兄弟愛が欠かせない。そして「兄弟愛」は、神から頂いた「愛」によって完成されます。
「あなたがたの信仰」という言葉から始まって「愛」にまで至るこれらのものは、どれも、神が私たちに与えてくださる賜物です。私たちの心がけや力によって成し遂げるべき努力目標ではなく、神さまが私たちの内に結んでくださる実りです。
神さまに自分の場所を明け渡し、私の内に始めてくださる御業を受け入れるとき、「あなたがたの道と行いを改めよ。そうすれば、私はあなたがたをこの場所に住まわせる」という御言葉が実現するのではないでしょうか。
こういうわけで、あながたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬遠には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(2ペトロ1:5~7)
今日の新約聖書は、「信仰」ということから始まっています。この「信仰」はもう少しキチンと翻訳すると「あなたがたの信仰」と書かれています。ほかの誰でもなく、私たちが信じている信仰。それには「徳」が加えられなければならない。徳は、信仰よりもずっと一般的な響きがする言葉です。社会の中でも誰もが立派と認めるようなあり方という語感があります。そのような「徳」に「知識」が加えられる。自分自身のこと、相手のこと、社会のこと。様々なことをわきまえ、よく知っていることが求められています。そしてそのような「知識」には「節制」が必要だ、と言います。欲望に基づく知識ではなく、節制に向かう知識。「節制」に「忍耐」が求められるというのは、よく分かる気がします。しかもその「忍耐」は神様の御前に膝をかがめて崇め、へりくだってこのお方に祈る「敬虔」に裏打ちされた忍耐です。ただし、「敬虔」は「兄弟愛」がなければ、空しいものになってしまいます。独善的な、敬虔の名による自己満足になってしまう。兄弟愛が欠かせない。そして「兄弟愛」は、神から頂いた「愛」によって完成されます。
「あなたがたの信仰」という言葉から始まって「愛」にまで至るこれらのものは、どれも、神が私たちに与えてくださる賜物です。私たちの心がけや力によって成し遂げるべき努力目標ではなく、神さまが私たちの内に結んでくださる実りです。
神さまに自分の場所を明け渡し、私の内に始めてくださる御業を受け入れるとき、「あなたがたの道と行いを改めよ。そうすれば、私はあなたがたをこの場所に住まわせる」という御言葉が実現するのではないでしょうか。