あなたはあなたの神に立ち帰れ。慈しみと公正を重んじ、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア12:7)
(パウロの手紙)「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(1テモテ1:15~16)
パウロはたくさんの手紙を書き、新約聖書に収められています。パウロが比較的若い頃に書いたと考えられているコリントの信徒への手紙一に、このような言葉があります。「私は神の迫害を迫害したのですから、使徒たちの中ではもっとも小さなものであり・・・」(1コリント15:9)。そして、もっと後に書かれたと考えられているエフェソの信徒への手紙にはこのようにあります。「この恵みは、すべての聖なる者たちのうちで最も小さなものである私に与えられました(エフェソ3:8)」。そして、テモテへの手紙はパウロの晩年に近い時期に書かれたと考えられています。今日の箇所にはこうありました。「私は、その罪人の頭です。」
このように見ていくと、年を経る毎にパウロの罪の自覚が深まっていたことが分かります。使徒たちの中で、すべての聖なる者たち(つまり、キリスト者たち)の中で、いやそれどころか、ありとあらゆるすべての罪人たちの頭に他ならない。私は救いようのない、とんでもない罪人。パウロは年を取る中でそういう自覚を深めていきました。
とんでもない、救いようのない罪人。そんな私を救ってくださるのは、ただイエス・キリストだけです。キリストの限りない寛容が私を救ってくださった。罪人を救うために世に来てくださったキリストが、こんなとんでもない罪人の頭である私までも救ってくださった。
私たちにはただキリストがいてくださるだけです。他には何もない。そして、他の何も必要ない。このお方におすがりするだけ。それが私の命。パウロの告白が私たちに響きます。
(パウロの手紙)「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(1テモテ1:15~16)
パウロはたくさんの手紙を書き、新約聖書に収められています。パウロが比較的若い頃に書いたと考えられているコリントの信徒への手紙一に、このような言葉があります。「私は神の迫害を迫害したのですから、使徒たちの中ではもっとも小さなものであり・・・」(1コリント15:9)。そして、もっと後に書かれたと考えられているエフェソの信徒への手紙にはこのようにあります。「この恵みは、すべての聖なる者たちのうちで最も小さなものである私に与えられました(エフェソ3:8)」。そして、テモテへの手紙はパウロの晩年に近い時期に書かれたと考えられています。今日の箇所にはこうありました。「私は、その罪人の頭です。」
このように見ていくと、年を経る毎にパウロの罪の自覚が深まっていたことが分かります。使徒たちの中で、すべての聖なる者たち(つまり、キリスト者たち)の中で、いやそれどころか、ありとあらゆるすべての罪人たちの頭に他ならない。私は救いようのない、とんでもない罪人。パウロは年を取る中でそういう自覚を深めていきました。
とんでもない、救いようのない罪人。そんな私を救ってくださるのは、ただイエス・キリストだけです。キリストの限りない寛容が私を救ってくださった。罪人を救うために世に来てくださったキリストが、こんなとんでもない罪人の頭である私までも救ってくださった。
私たちにはただキリストがいてくださるだけです。他には何もない。そして、他の何も必要ない。このお方におすがりするだけ。それが私の命。パウロの告白が私たちに響きます。