イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救済者を起こして、彼らを救われた。(士師記3:9)
ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。(ヘブライ10:35)
士師記は、カナンの地に定住し始めた神の民にまだ王がいなかった時代の歴史を伝えています。
エジプトを出て荒れ野で過ごしていた頃に民の指導をしていたのはモーセでした。カナンの地に入ってその地を獲得したときにはヨシュアという人が指導者でした。モーセもヨシュアも、主なる神さまに仕え、人々を信仰に導くリーダーでした。ところが、問題は次の世代です。「ヨシュアが生きている間はもとより、ヨシュアよりも長く生きた長老たちが生きている間、民は主に仕えた」(士2:7)。ところが、そのような状況は長続きしませんでした。「その世代の者も皆、先祖の列に加えられると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた業も知らない別の世代が起こった。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、多くのバアルに仕えた」(士2:10-11)のです。士師記は信仰的に転がり落ちていく民の姿を伝えています。
神さまから離れ、主を礼拝することを蔑ろにしたとき、民は堕落し、国は荒れ、生活はメチャクチャになり、他国に攻め滅ぼされる。そのような負のスパイラルに陥ります。そんなときに民は主に助けを求めて祈りました。都合の良い祈りです。困った時の神頼みです。しかし、主はその祈りに耳を傾けてくださいました。「イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救済者を起こして、彼らを救われた。」こうして主が起こしてくださった救済者は「士師」と呼ばれ、人々を主のもとへ引き戻した。ところが士師が死ぬと再び民は堕落し、不幸になり、また祈り、主はそれを聞いてくださって・・・ということが繰り返された。それが民の歴史でした。
私たち人間のダメな歴史そのものだと思います。しかしなお主は私たちを見捨てず、憐れんで祈りを聞いてくださっている。だから私たちも生かされている。「ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。」この聖書の御言葉を信じ、主を呼び求めましょう。主の憐れみにすがりましょう。ここに救いがある。こんなにダメな、不信仰な私を救ってくださるのはこのお方以外にはいない。そのことを信じ、主を呼び求めましょう。
ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。(ヘブライ10:35)
士師記は、カナンの地に定住し始めた神の民にまだ王がいなかった時代の歴史を伝えています。
エジプトを出て荒れ野で過ごしていた頃に民の指導をしていたのはモーセでした。カナンの地に入ってその地を獲得したときにはヨシュアという人が指導者でした。モーセもヨシュアも、主なる神さまに仕え、人々を信仰に導くリーダーでした。ところが、問題は次の世代です。「ヨシュアが生きている間はもとより、ヨシュアよりも長く生きた長老たちが生きている間、民は主に仕えた」(士2:7)。ところが、そのような状況は長続きしませんでした。「その世代の者も皆、先祖の列に加えられると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた業も知らない別の世代が起こった。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、多くのバアルに仕えた」(士2:10-11)のです。士師記は信仰的に転がり落ちていく民の姿を伝えています。
神さまから離れ、主を礼拝することを蔑ろにしたとき、民は堕落し、国は荒れ、生活はメチャクチャになり、他国に攻め滅ぼされる。そのような負のスパイラルに陥ります。そんなときに民は主に助けを求めて祈りました。都合の良い祈りです。困った時の神頼みです。しかし、主はその祈りに耳を傾けてくださいました。「イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救済者を起こして、彼らを救われた。」こうして主が起こしてくださった救済者は「士師」と呼ばれ、人々を主のもとへ引き戻した。ところが士師が死ぬと再び民は堕落し、不幸になり、また祈り、主はそれを聞いてくださって・・・ということが繰り返された。それが民の歴史でした。
私たち人間のダメな歴史そのものだと思います。しかしなお主は私たちを見捨てず、憐れんで祈りを聞いてくださっている。だから私たちも生かされている。「ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。」この聖書の御言葉を信じ、主を呼び求めましょう。主の憐れみにすがりましょう。ここに救いがある。こんなにダメな、不信仰な私を救ってくださるのはこのお方以外にはいない。そのことを信じ、主を呼び求めましょう。