2015年4月8日水曜日

詩編第119編41から48節

(私訳)
41 そして私に来させてください あなたの慈しみを 主よ
  あなたの救いを あなたの仰せの通りに
42 そして私は答えましょう 私の恥辱に 言葉の
  なぜなら 私は信頼した あなたの言葉において
43 そしてない 奪ってください 私の口から 言葉を 真実の まで とても
  なぜなら あなたの裁きを 私は望んだ

44 そして私は保ちましょう あなたの律法を
  絶えず 永遠に向けて そして永遠に
45 そして私は歩きましょう 広いところにおいて
  なぜなら あなたの命令を 私は探した
46 そして私は話しましょう あなたの定めにおいて 前で 王の そしてない 私は恥じ入る
47 そして私は喜びましょう あなたの戒めにおいて それは わたしが愛したところのもの
48 そして私は上げましょう 私の両手を 向かって あなたの戒め それは 私が愛したところのもの

  そして私は思い巡らしましょう あなたの掟において

この詩編の構成
この詩編は41から43節と44から48節の大きく二つに分けられる。それぞれ、42節と46節が軸になっている。どちらにも、「言葉の私の恥辱(「私を辱める言葉」といった意味であろう)」や「私は恥じ入りません」という同じ意味の言葉が置かれている。そして、その前後を挟む祈りや信仰告白で構成されている。また、43節1行目の最後の方にある「まで」という単語と44節に行目の「永遠に」は同じ語根字であり、かすがいの言葉になって前後の段落をつないでいる。

第Ⅰ段落(41から43節)
41節と43節の冒頭の動詞はどちらも二人称の願望形が使われている。即ち、祈りの言葉になっている。また、41節ではこの連で唯一「主」という神のお名前が登場し、全体の主題を提示する。「主よ、仰せの通りに慈しみと救いを来させて下さい」と祈る。主が御言葉の通りにしてくださることが救いなのだ。なぜなら、世界はいろいろな言葉で溢れている。だから、私を恥辱に陥れる言葉にも答えようとする。主の言葉を信頼しているからだ。真実の言葉を私の口から奪わないでくださいと願う。明らかに恥辱をもたらす言葉と対比している。ひたすら主の言葉に信頼する姿勢を示している。

第Ⅱ段落(44から48節)
この段落の冒頭の動詞は全て一人称の願望形であり、希望や決心を表す。つまり、信仰告白の形と言えよう。まず、最初の纏まりの4445節では主の律法を永遠に保ちましょう、あなたの命令を探して広いところを歩きましょうと言う。ここでは時間的・空間的な広がりの中で主の言葉を求めると告白する。そして、4748節では「私が愛したあなたの戒め」と二度繰り返し、主の言葉を喜び、手を上げて祈り、思い起こしますと告白する。この詩編の主題である主の言葉への愛が繰り返されている。そして、この愛は恥辱に陥ることがない。例え目の前にいるのが王のような権力者であったとしても、作者は主の定めを語り、恥じ入ることがない。主の言葉を愛しているからである。

祈りのために
ローマ1・16「私は福音を恥としない。」この福音とは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる(3・24)」こと。世界が礼賛するのは「できる」ことの誇り。教会はどうか?しかし、その誇りは取り除かれた。ただキリストを信じることによる救いは理性に反する。我らは主の福音の言葉を恥じることなくひたすら愛しているだろうか?

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2015年4月5日日曜日

マルコによる福音書16:1-8「福音、それはハプニングだ!」


キリストの教会は毎週日曜日に集まって神を礼拝します。教会では日曜日を主の日とか主日などと呼ぶことがあります。「主(しゅ)」というのはイエス・キリストを指す言葉です。今日はイースター、十字架にかけられたイエス・キリストが復活したことを祝う日曜日です。しかし、主の日と私たちが呼ぶ日曜日の礼拝ではいつでもキリストの復活が祝われています。なぜ、キリスト教会は2000年間キリストの復活を祝い続けてきたのか。今日最後に歌う讃美歌は327番です。このように歌います。「すべての民よ、よろこべ、主イエスは死に勝ちませば、陰府のちからはや失せて、ひとのいのちかぎりなし。」イエスが死から復活し、死に勝った。死はもう負けてしまった。私たちの命ももはや死に打ち負かされてしまうことはない。それがキリスト教会の信仰です。昨年の夏にこの讃美歌を歌う葬儀に出席しました。「よろこべ」という歌詞で始まりますので、およそ葬儀らしくない歌です。しかし、死の姿を正しく見つめた葬式で会ったと思います。この葬式は加藤さゆり先生という一人の伝道者の死に際して行われました。かつて加藤先生はこのように言っておられたことがあります。「教会で行われます葬儀に連なりますと、すべてこの死の力も神の愛から私たちを切り離すことはできないのだということを、そのたびごとに確認させられるのではないかと思います。神さまの力を知っているものは、そこで神の力によって打ち破られた死の姿を正しく見ることができるのではないでしょうか。」普通、葬儀というのは人間がどんなにがんばって生きても最後は死に負けてしまうことを確認するプロセスであるかのように見られているのではないかと思います。しかし、教会の葬儀はそうではないのです。イエスの復活によって明らかになった神の力によって、死がもう負けてしまっている。死がトボトボ出ていく後ろ姿を見るものでしかない。しかし、そう言われたところで戸惑うでしょう、やはり、私たちはいずれ死ぬのですから。聖書を見ると、イエスの復活に最初に触れた女たちも正気を失うほどに恐れました。当然です。死人が復活するなど、人間の全く手の届かない話です。却って、私も必ず死ぬ、その現実の方が確かであると思い込んでしまうのです。しかし、神を信じる者にはもっと確かな現実があります。私は洗礼を受けている。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ6:4)」神を信じ洗礼を受けた者は、もう死に終わってしまいました。そして、新しい命に生きるのです。それは神がしてくださる奇跡としか言いようがない。この洗礼の命の奇跡に、あなたも招かれています。

2015年4月3日金曜日

マルコによる福音書第15章21から41節

1.
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

主イエス・キリストは、そのように叫んで死なれました。キリストは神に見捨てられて死なれたのです。このような絶望のどん底の叫びを、私たちはしたことがあるでしょうか。或いは、もっと立派な死を迎えた人はたくさんいます。主イエスと同じようにいわれなく死刑にされたり、拷問の果てに獄死したりするのであっても、堂々と、立派な最期を迎える人はたくさんいるでしょう。

しかし、主イエスさまは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。絶望して死なれました。神の子らしい、堂々とした、立派な最期ではありませんでした。このお姿につまずく者も多いかもしれません。事実、主イエスの死は、たくさんの人たちの侮辱に囲まれていました。

罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

これも既に侮辱以外の何物でもなかったのでしょう。ユダヤ人の王と認め、重んじていたわけではありません。大体、「ユダヤ人の王」が罪状などというのは、全く話が通らないことです。普通は殺人とか強盗とか、罪状というのはそういうものです。しかし、主イエスは「ユダヤ人の王」と侮辱されて殺されました。

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

主イエスのこれまでのお言葉、なさったことをあげつらい、イエスを侮辱します。周りにいる者皆にののしられ、謂われなきことで責められるのです。むしろ、隣人への愛に生きたことでもってののしられました。人間として許されない言葉です。しかし、事実、主イエスはそういう人間として許されない言葉を浴びせられながら死なれました。
そこには、神としての威厳も、尊厳も、栄光も、何もありません。主イエスの神の子らしさはどこにもありません。まことに神の子らしい奇跡も、力も、何もないのです。

2.
イエスが、このようにして、侮辱され、神からも見捨てられて死なれた。だから、私たちは、決して、神から見捨てられることはもはやないのです。わたしの代わりに、イエスが神から棄てられたからです。
人々はイエスを侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」メシア、イスラエルの王、それは、全て皮肉です。「他人は救ったのに、自分は救えない」、これも皮肉です。人々の病を癒やし、友なき者の友となり、そうやって、人々を救ってきた。民衆の心を掴んできた。しかし、今、お前は自分自身の事さえも救えないではないか。そのように言ってイエスをののしりました。
その通りなのです。この方は、他人を救うのに自分自身を救われません。しかも、私たちを、ただ病や寂しさから救うというのには留まらない、罪から救うために、ご自分を救うことなく神から見捨てられて死なれました。その死を、ご自分の神の子らしさを隠してでも引き受けてくださいます。
だから、わたしが救われたのです。それ以外にはわたしが救われた理由は何一つありません。

3.
ここには二人の人のイエスとの出会いが報告されています。
一人目は、「アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人」です。彼は田舎から出てきて、たまたまそこにいました。なぜなのか、理由は書かれていません。しかし、運悪くそこににいたこの男は、イエスの十字架を無理やり担がされます。一体どれほどの重さだったのか。丘を登る道を、肩に食い込む十字架を担いで上って行く。いや、そのような肉体的な苦しみだけではありません。イエスが受けていた侮辱を一緒に浴びせかけられるようなところがあったのではないかと思います。一緒にさらし者にされる感覚ではなかったでしょうか。この時、彼は何を思い、イエスのことをどう感じたのでしょうか。
それは、分かりません。しかし、一つ言えることがあります。このシモンという人物は、使徒言行録第13章1節に登場するアンティオキア教会の「ニゲルと呼ばれるシメオン」と同一人物ではないかと推測されています。或いはその子ルフォスはローマの信徒への手紙第16章13節の「主に結ばれている選ばれた者ルフォス」のことではないかと言われています。キレネ人シモンは、この時の出来事を通して主イエスを神の子と信じたのではないかと考えられています。
そして、もう一つの出会いがあります。イエスが死なれたのを側で見ていた一人の人がいました。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」「このように息を引き取られた」というのは、神の子であることが隠されてしまうほどのイエスの嘆き、人々の侮辱、それら全てを含むのではないでしょうか。このお姿を見たとき、却って、「本当に、この人は神の子だった」と告白せざるを得なかったのです。
私たちは、十字架にかけられたキリストのもとへと招かれています。このお方が受けた侮辱は、わたしの侮辱です。わたしが口にしてしまった侮辱であり、同時に、わたしが受けるべき侮辱です。このお方が神に見捨てられて死なれたのは、わたしが見捨てられるべきであった絶望を、わたしに代わって苦しんでくださったのです。この方こそ我らの救い主。この方こそ、神の子。
神の子イエス・キリストは、あなたのために十字架にかけられました。

2015年4月2日木曜日

マルコによる福音書第14章12から31節

1.

受難週の木曜日を迎えた。今日はこの祈祷会で聖餐を祝う。受難週木曜日の聖餐は特別だ。そもそも、聖餐はこの日に制定された。いわゆる最後の晩餐と言われる、十字架にかけられる日のキリストと弟子たちとの食卓。過ぎ越しの食事。聖餐はこれを再現している。


 イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。


主イエスはパンを裂いて「これはわたしの体である」と言われた。杯を取って、「これは多くの人のために流すわたしの血」と言われた。私たちは聖餐に与るときに、主イエス・キリストのお体と血に与る。私たちがいただいているのは、畏れ多いことに、キリストの体なのだ。キリストの血なのだ。象徴ではない。そういう気持ちになるというのでもない。私たちはキリストが制定された聖餐に与るときにキリストご自身に与っている。これは、神秘と言わなければならない。神の秘技だ。

もちろん、パンや杯を眺めながら、これが一体どういうふうにイエスさまのお体に変化しているのかと考えてみても、仕方がない。大切なことは、「これはわたしの体」、「これはわたしの血」と主イエスがおっしゃった食卓を私たちが囲み、そこにキリストが現に共にいてくださって、私たちはこのお方の言葉に従って、お体と血潮に与っている、ということなのだ。

聖餐において、私たちは、キリストご自身を頂いているのである。


2.

主が聖餐を制定なさった22から26節は、12から21節と26から31節に挟まれている。これらは、どちらも、弟子の裏切りを告げる主イエスのお言葉なのである。イエスは既に裏切りを企てていたイスカリオテのユダについて、その事をはっきりと指摘なさった。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」それが誰なのかと言うことはあからさまには言われていない。ユダ自身には分かったはずである。主イエスは、彼の心に秘められた裏切りの心、即ちイエスなど必要ないという心をご存知であった。

27節以下でも同様である。「あなたがたは皆わたしにつまずく。」更にペトロについては、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とまで、具体的に言われた。ペトロは打ち消す。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」他の者も同じように考えていた。

しかし、彼らは、主が言われたとおりになってしまう。「あなたがたは皆わたしにつまずく。」


3.

決して忘れることができないのは、このような弟子たちの裏切りや躓きのただ中で、主イエス・キリストが聖餐を制定なさったと言うことだ。「取りなさい。これはわたしの体である。」引き裂かれたパンを差し出しながら、主イエスはそう言われる。あなたのために引き裂かれたわたしの体を取りなさい!

「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」皆が飲んだ杯をそのようにおっしゃった。多くの人のために、あなたのために、私は血を流す。その血を飲みなさい。その血によって命を得なさい。主はそのように言われるのだ。

私たちは、今、この食卓を囲む。これは、キリストご自身が定めてくださった食卓である。この食卓を囲むとき、私たちはキリストと出会う。実際にキリストのお体を肉感することができる。キリストがおられる場所、それは、聖人君子の集まりの中ではない。ご自分を捨て、躓く者たちの間にいてくださる。そして、その場所で、ご自分を私たちのために献げてくださっている。

聖餐のパンは、最初は丸い。しかし、皆がこれをちぎって食べると、どんどんボロボロになっていく。一周回って帰ってきたとき、パンは最初の見目麗しさをもはや保たない。キリストは、そのようにして私たちのために引き裂かれ、血を流されたのだ。この方こそ、ただお一人の神、ただお一人の救い主である。

2015年4月1日水曜日

マルコによる福音書第14章1から11節(2015年4月1日・受難週祈祷会水曜日)

1.
主イエスの十字架に向かって、時が進んでいる。新共同訳はこの日の出来事を三つの段落に分けているが、どれも、イエスの死への備えを伝えている。最初と最後に登場するのは祭司長たちで、彼らは律法学者らと共に「何とか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」。しかし、「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と話し合った。あと2日すると過越祭が始まる。ユダヤ最大の祭り。都には大勢の人が集まる。イエスを殺す陰謀を巡らすには、悪い時期であった。
しかし、10節になると、彼らにとっては想定外でもあり、渡りに舟でもあったのだろう。イエスの弟子の一人で会えるイスカリオテのユダが来て、イエスを引き渡したいと話を持ちかけてきたのである。「彼らはそれを聞いて喜び、どうすれば折りよくイエスを引き渡せるかとねらっていた」。イエスを殺そうとする計略が巡らされている。これが、イエスの死への一つの備えである。

2.
しかし、ここにはもう一つの美しい物語が語られている。即ち、間に挟まれた3から9節だ。
主イエスは重い皮膚病の人シモンの家に行かれ、食卓についておられた。するとそこに一人の女が入り、「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」のである。周りの人は驚いたに違いない。いや、それどころか、憤慨した。しかし、主イエスはおっしゃった。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」この「良いこと」という言葉は、「美しいこと」と翻訳することもできる。主は彼女がしたことを美しいことと受け入れてくださった。主が女の愛を受けとめてくださった、そのこと自体が何よりも美しい。そして、この美しい出来事は「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」とおっしゃる。美しい、主の死への備え、埋葬の準備なのである、と。
ここに、もう一つの主の死への備えがある。この美しい物語を前後に挟むのは、イエスを殺そうとする策略、そして、イエスを裏切ろうとして金を受ける約束を取り付ける男たちの姿なのだ。明確な対比の下に、主の死への二つの備えが鮮やかに描き出されている。

3.
これら二つの物語には、主の死への備えということと、もう一つのつながり、対比がある。それは、どちらも「金」が話題になっている、ということだ。
女がイエスの頭にナルドの香油を注ぎかけたとき、「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』」と言ったのである。300デナリオンと言えば、ごく普通の労働者の年収に相当する額である。確かに高価な品だ。それを売って貧しい人に施せば、確かに、効率的で筋が通った使い方だと言えるだろう。
しかし、そこに愛はあるのだろうか?そこに、美しさはあるのだろうか?
憤慨した人々が本当に貧しい人々のことを考えていたとは思えない。ヨハネによる福音書の並行記事を見ると、はっきりと、そうではなかったと書かれている。マルコもやはり同じように見ていたのではないか。主イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」もしもあなたたちが本当に貧しい人々を愛しているのなら、いつでも彼らはあなたたちと一緒にいるのだから、いつだって施すことができるだろうと言われるのである。厳しい指摘だ。
そして、その同じ日に、イスカリオテのユダは裏切りを企て、イエスを引き渡そうとして祭司長たちのところへ行ったのだ。まるで彼はナルドの香油の女を巡るイエスの対応に躓いたかのようだ。ユダは金のことで躓いた。そして、祭司長のところで、金をもらってイエスを引き渡してしまおうと決心したのである。
金の誘惑は、私たちにとってはあまりにも生々しい。生々しすぎて、語ることをためらうほどである。恐らく、誰もが知っている誘惑であろう。

4.
「人間の混乱と神の摂理」という言葉がある。人間の混乱と神の摂理によってこの世界の歴史は動いていく。人間の混乱、それは、例えば祭司長に象徴される、思惑や計算であろう。祭司長は、恐らく、特別な悪人ではなかったのではないか。自分たちの国が自分たちが思い描く仕方で安定し、発展していくことを願い、求めた、一介の宗教家、また政治家だったのではないだろうか。或いは、人間の混乱は、ユダにも象徴される。彼は金で躓いた。金の価値観がイエスとは異なった。もっと効率的に、経済的に、「貧しい人を助ける」という理想論まで持ちだしながら、自分のしていることを正当化してみせる。
しかし、この世界の歴史を支配しているのは、決して、人間の混乱ではない。人間の善意から、或いは悪意から出た思惑だけが、人間の汚いものやきれいなものだけが歴史を作っているのではない。そこには神の摂理が生きて働いている。神の御心が、この人間の罪の思惑の中で貫かれている。あの女はそれに「アーメン」と答えたのだ。だから、主イエスは言われる。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」なぜなら、女が香油を注いだ、それは、主の埋葬のための準備であったから。人間の混乱がイエスを十字架につけた。しかし、神が、摂理の御業を持って貫いたのは、その十字架によって私たちを混乱と罪の中から救おうとする御業であったのだ。祭司長の罪、ユダの罪、この私の罪をも用いて、神は救いの御業を、今日も進めておられるのだ。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...