2025年3月31日月曜日

2025年3月31日の聖句

主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみ生きる人があなたをたたえますように。(詩編145:10)
詩と賛歌と霊的な歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。(コロサイ3:16)

「造られたものがすべて」と言っています。何気なく読み飛ばしてしまいそうな小さな言葉です。しかし、とても重い言葉だと思います。「すべて」というのですから、私たちの思うところを超えていることになります。私たちの願いや私たちの意地や、私たちの考えを超えたところの話です。神がお造りになったもののすべてが神に感謝しますように、というのです。
私は、自分の了見は本当に狭くて小さいと思います。身に心に、その小ささから痛みを覚えます。しかし神さまの慈しみは私の小ささなんて吹き飛ばしてしまうほど大きく、広く、深いのです。主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみ生きる人があなたをたたえますように!
キリストの恵みが広く、長く、高く、深いから、私たちの賛美もまた広がります。大きくして頂けます。主に献げる感謝の歌を、主ご自身が高く上げてくださいます。私たちはどんなときにもキリストを見上げ、キリストに向かって、心から賛美の歌を献げる。キリストへの愛を込めて、キリストに献げるために。そうやってキリストに向かうとき、私たちは一つになるのです。

2025年3月30日日曜日

2025年3月30日の聖句

今週の聖句:
その麦が、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

今日の聖句:
この方こそ、私たちの神、主。
その裁きは全地にわたる。(詩編105:7)
義のために迫害される人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。(マタイ5:10)

「義のために」と主イエスはおっしゃいました。「義」という字は「正義の義」ですが、現代のキリスト者からあまり評価を受けていない言葉の一つであるように思います。正義や義を語る者の偽善生というか、独善的な匂いがしてしまう、ということがあるのではないでしょうか。しかしそれは私たちの持っている「義」のイメージから出発するから間違ってしまっている、ということであると思います。
聖書の言う「義」は、私たちを生かす神の慈しみです。私たちがそれに応えて、神と人とに責任的に生き、弱い他者への慈しみを忘れず、共同体を形成する生、それを聖書は「義」と呼びます。
「義のために迫害される人々は、幸いである。」主イエスはそうおっしゃいます。私たちが神を愛し、隣人を愛し、慈しみに生きる。教会を形成し、今日私たちが出会う人々を愛する。そのために迫害され、身に覚えのない悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いだ、と主はおっしゃいます。キリストご自身が生きた道だからです。「天の国はその人たちのものである!」神が私たちを喜んでくださる、という約束です。
キリストのものとして、新しい一週間に出て行きましょう。

2025年3月29日土曜日

2025年3月29日の聖句

主はその聖なる神殿におられる。
全地よ、主の前に沈黙せよ。(ハバクク2:20)
(イエスは)人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての民の、祈りの家と呼ばれる。』」(マルコ11:17)

今日の主イエスのお言葉は、いわゆる「宮清め」と呼ばれる事件の時の言葉です。主イエスがエルサレムの神殿の境内に入ると、たくさんの人がそこで売り買いをしていた。主イエスがその人たちを追い出しておっしゃった言葉が、今朝の御言葉です。
「私の家は、すべての民の、祈りの家と呼ばれる。」それなのにそうではなくなってしまっている。何が問題だったのか。細かな説明をここですることはできません。ここでは神殿で献げるための鳩が売られたり、献金するための特別な通貨への両替が行われていました。つまり、礼拝のための便利を整えるための商売でした。礼拝を人間の都合で変質させている。しかも、この場所は、恐らく異邦人が礼拝をするための場所でもあった。そこで信仰を養うべき人がいることを無視して、自分たちの便利を追求する商売が幅をきかせていた。これでは「祈りの家」でなくなってしまっている。
私たちの献げる祈りを、神は聖なるものと見てくださっています。神の御前での祈りだからです。私たち自身の信仰が聖だからではなく、キリストがそのようなものとしてくださる。だから、私たちは礼拝や祈りを自分の便利や都合のために変質させてはならないのです。
「主はその聖なる神殿におられる。」祈るとき、私たちはそのお方の御前にいます。神の前で、私たちは聖なる祈りの奉仕に打ち込むことが許されているのです。

2025年3月28日金曜日

2025年3月28日の聖句

翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる。(イザヤ31:5)
(イエスの弟子たちへの言葉)イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。(マタイ10:6~7)

私たちが生きている場所は、キリストに遣わされた場所です。
礼拝の最後は「派遣の言葉」です。私たちはキリストに遣わされて、今生きている場所に送り出されています。そのために、キリストはおっしゃいます。「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」失われた、ということは本来は神のものである、ということです。神のものとして生きるべき神の羊が今失われてしまっている。神のものとして取り戻してほしい、と主イエスは私たちに命じておられます。主イエスが譬えでお語りになった、あの羊飼いのように生きてほしい、とキリストが私たちにおっしゃっている。
そこで語るべき言葉をキリストが私たちに授けてくださいました。「天の国は近づいた。」神様の御支配はもうここまで来ている。この世界は、罪や死、悪の力が支配しているのではない。神が治めておられる。そのことを宣言する言葉こそ、キリストが私たちに託してくださった福音です。私たちはキリストに支配された者として、キリストの御心に生きる。そのことが私たちの伝道です。
必ず、神は私たちを今日も守ってくださいます。母鳥が翼を広げて雛を守るように、主が私たちを守ってくださっている。主を信じて、今日の日を生きていきましょう。

2025年3月27日木曜日

2025年3月27日の聖句

集会の中で神をたたえよ。(詩編68:27)
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。(使徒2:46~47)

今日の新約に出て来る「宮」というのは、神殿のことです。最初の弟子たちはペンテコステの出来事の後、毎日宮に集まっていました。共に祈るためでしょう。「家々」というのも出てきます。当時はまだ教会堂という専用の建物はありませんでしたから、キリスト者の仲間の誰かの家に集まって礼拝していたのでしょう。しかも「家々」と複数形になっているので、そういう家の集会がたくさんあったのでしょう。いろいろな場所で神を賛美し、祈り、礼拝する営みが始まっていた。
しかし場所はいくつあっても、集まってしたこと一つです。彼らは「パンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し」。パンを裂いた。明らかに聖餐のことです。主イエスの復活、そして昇天。その後すぐに教会は聖餐を始めていました。あの最後の晩餐からまだほんの数ヶ月のことです。主イエスが私たちのためにご自分の肉を引き裂いてくださったこと、血を流してくださったことを思い起こす営み。聖餐。これによって私たちは神を礼拝します。十字架にかけられたキリストを仰ぐことこそが、キリスト教会の歴史の最初からの礼拝の営みでした。
そして、彼らは食事を共にしていました。主イエスは、ザアカイや徴税人、罪人たちと喜んで食事をともになさいました。共に食事を頂くことは、共に生きることです。そういう営みがキリスト教会の最初から、たくさんの家々で織りなされていた。そうやって共に信じ、共に神を礼拝し、共に生きるキリスト教会は、「民全体から好意を持たれていた」のです。神様の民としての新しい歩みがここに始まったのです。

2025年3月23日日曜日

2025年3月23日の聖句

今週の聖句:
鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。(ルカ9:62)

今日の聖句:
朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日に、あなたが私の砦、また、私の逃れ場であられたからです。(詩編59:17)
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。(使徒26:22)

朝が明けるとき、昇り行く太陽を見ながら神の恵みを喜びたたえる。なんて素晴らしいことでしょう。ヨーロッパで古い礼拝堂は東向きに建築されているものが多いそうです。東、すなわち太陽が昇る方角です。キリストは太陽が昇るように墓から出て来られた。キリストの復活の命を祝って、東向きに礼拝堂を建築する習慣があるのだそうです。日本では土地の問題があるのでなかなかそうできませんが、精神においては同じ。私たちは墓から復活させられたキリストを礼拝している。キリストを復活させた神の恵みをたたえている。
私たちの苦しみの日に、神ご自身が私たちの砦になってくださり、逃れ場になってくださいます。復活のキリストが私たちを守ってくださいます。私たちはその事実を信じ、キリストをたたえ、キリストの御前に膝をかがめて礼拝しているのです。
このキリストにある神の助けをいただいて、私たちはしっかり立つことができます。神様が私たちの足を確かなものにしてくださいます。主イエス・キリストの恵みと祝福が今日もあなたにありますように。

2025年3月22日土曜日

2025年3月22日の聖句

そしてすべての人の上にわが霊を注ぐときが来る。(ヨエル3:1)
神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがた目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。(使徒2:33)

神様は、ご自身の霊である聖霊を「すべての人に注ぐ」と約束なさいました。この約束は主イエスが復活され、天に上げられ、その後実現しました。神様はすべての人に、即ち「この私にも」聖霊を注いでくださっている。
ハイデルベルク信仰問答にこのような告白の言葉があります。「聖霊は私にもまた与えられ、まことの信仰によって、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせ、私を慰め、永遠までも、私と共にいてくださるのであります。」
聖霊は私にもまた与えられている。聖霊は、何か特に霊的な人とか、立派な信仰者とか、見るからに敬虔な人、特殊な力のある人だけの話ではありません。聖霊は、この私と永遠までも共にいてくださる神さまのことです。聖霊なる神様は私とも共にいてくださる、今も、そして永遠に。
聖霊はこの私にも注がれている。聖霊が働いて、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせてくださいます。つまり、キリストの十字架と復活の恵みをこの私のための恵みとして、私にとってもまた生きたものとしてくださっている。聖霊がそのために働いてくださっています。
約束の聖霊を、あなたもまた神からいただいています。今日も聖霊が共にいてくださいます。そのことを信じて今日という日に出発していきましょう。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...