2025年5月31日土曜日

2025年5月31日の聖句

恵みに富み、貸し与える人は良い人。
その人は公正に事を行う。(詩編112:5)
善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために良い土台を築き上げるように。(1テモテ6:18~19)

ケチであってはいけない、と聖書は私たちに語りかけます。「貸し与える人は良い人」です。隣人のために自分の懐を痛め、見返りを当てにせずに貸すこと。善を行い、良い行いに富み、物惜しみせず、喜んで分け与えること。その幸いを私たちに語りかけます。
そう生きられたら良いなと本当に思います。しかし同時に、自分はそう生きられていないとも思います。気前の良い人は何人も思い浮かびます。何でも人に与えて生きている人。見返りを受ける事なんて全然考えてもいない人。ところが自分の実態はどうなのか・・・と考えると、少し苦しい気持ちになります。
どうしてなのでしょうか。どうして自分はケチなのか。もしかしたら、「自分」ということへのこだわりが強すぎるのかもしれません。あるいは、自分の手に何もないということへの不安が大きすぎるのかもしれません。神が与え、神が生かしてくださっていることを単純明快な心で信頼するということが欠けているのかもしれません。
しかし、神様ご自身はケチではありません。気前の良い方です。こんな私にさえ、必要なものを与えてくださいます。日々生かしてくださっている神の恵みを信頼し、神様に心からより頼んで生きる。そんな私でありたい、と本当に願います。キリストが私を新しくしてくださり、愛し、与え、分け合う喜びに生かしてくださいますように。

2025年5月30日金曜日

2025年5月30日の聖句

あなたの御名を愛する者が、あなたを喜び歌いますように。(詩編5:12)
しかし使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き毎日、神殿の境内や家々で絶えずメシア・イエスについて教え、福音を告げ知らせていた。(使徒5:41~42)

主イエス・キリストへの愛が、使徒たちを喜びの人に変えました。かつて主が十字架に掛けられるとき、彼らは逃げてしまいました。シモン・ペトロは三度繰り返してイエスを知らないと否認しました。その人たちが今やイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ、というのです。あまりの変貌に驚いてしまいます。
主イエス・キリストへの愛。これではないでしょうか。キリストへの愛が彼らをこのような者にしたのです。そして、使徒たちのそのような主への愛は、主イエスさまからの愛によって育まれ、確かにされました。キリストが私たちをご自分への愛の人に変えてくださいます。キリストの愛が私たちを新しくしてくださいます。
「あなたの御名を愛する者が、あなたを喜び歌いますように。」私たちは御言葉に導かれて、主への愛の歌を歌います。キリストを愛し、賛美の歌を口ずさみます。キリストの愛が私たちの口に新しい歌を授けてくださいます。
今日、私たちも喜んでキリストを賛美しましょう。キリストの愛の出来事は私たちにも起こります。そのことを信じ、神の愛の確かさだけによりかかって、私たちも今日生きていきましょう。

2025年5月29日木曜日

2025年5月29日の聖句

(主の言葉)私が地に平和を与えるので、あなたがたは脅かされることなく憩う。(レビ記26:6)
イエスは言った。「私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。」(ルカ11:20)

イースターから40日目の今日は「主の昇天」の記念日です。死人の中から甦った主イエスが、その40日目に天に昇られた。その出来事を記念し、私たちは歩みを新たにします。
主なる神様はおっしゃいます。「私が地に平和を与えるので、あなたがたは脅かされることなく憩う。」私たちはキリストが約束してくださる平和のうちに、この世界へと派遣されています。神が私たちをそれぞれの場所へと遣わしておられます。キリストの平和の使者として、主イエス・キリストに示された神の愛の証人として、私たちはこの世界へでていきます。キリストが私たちの間で宣言なさった神の国の福音を私たちも携えて、この世界に届けるために、キリストが私たちを遣わしておられるのです。
「私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。」主イエスがおっしゃいます。キリストが悪霊を追い出し、人間を罪と悪から自由にする御業。それは神ご自身の力によるもの。キリストが来られ、罪の赦しが宣言され、悪霊と戦い、これに打ち勝たれた。ここに神の国が始まっている。神の国が来ている。私たちもその出来事の当事者です。
神の平和のうちに出て行きましょう。キリストの平和を携え、悪に打ち勝たれたキリストの力を信じ、今日も出発しましょう。

2025年5月28日水曜日

2025年5月28日の聖句

終わりの日に、国は国に向かって剣を上げず
もはや戦いを学ぶことはない。(イザヤ2:2,4)
すべての人と共に平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。(ヘブライ12:14)

私たちの生きているこの世界は、本当に深く傷ついています。時代そのものが病気になっていると思います。憎しみが渦巻いているし、本当に深く分断されています。ガザやウクライナの民衆に対する攻撃が終わりません。ミャンマーでの軍事政権の支配下での地震の被害もありました。民の痛みのどんなに深いことでしょうか。
「終わりの日に、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。」預言者イザヤはそのように語りました。イザヤが生きた時代も、やはり戦争で傷ついていましたし、権力者は他国との軍事同盟や大国の傘に入ることの方が神を信じるよりも現実的だと考えていました。現代と全く同じです。しかしそういう時代に逆らうようにして言うのです。「終わりの日に、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。」神を信じ、神が必ず平和をもたらしてくださると信じ、その幻に生き続けた。この一人の信仰者であり預言者である人物の言葉は、今も私たちの間に響き続けます。
私たちはこの時代にあって、時代がどうであろうとも神を信じ、神に従います。平和を築きます。聖なる生活、すなわち神のものとして生きる生活を形づくります。「すべての人と共に平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。」その人は主を見る。聖書はそう約束する。主イエスさまを私たちは仰ぎ、この世界にあって平和を追い求める。平和という理想を捨てません。平和を作り出す人として生きたい、と私たちは願います。主がそのような私にしてください、と今日も祈りつつ新しい一日に歩み出します。

2025年5月27日火曜日

2025年5月27日の聖句

我らの神のほかに誰が大岩であろうか。(詩編18:32)
(パウロの手紙)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りとすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。これからも救ってくださる違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:9~10)

パウロが「私たちとしては死の宣告を受けた思いでした」と言っていますが、ただならぬ言葉です。どうしてそのようなことを言っているのか。これに先立つ8節で、パウロはこのように言います。「きょうだいたち、私たちがアジアで遭った苦難について、ぜひ知っておいてほしい。私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて生きる望みさえ失い」と言っているのに続いて、今日の御言葉に至ります。「私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて生きる望みさえ失い、私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。」
迫害によって蒙った耐えられないほどの苦難。生きる望みを失った。しかし、そのようなとき、パウロは自分を頼りにはしなかった。自分を奮い立たせたり、根性で乗り切ろうとしたり、それは無理だと言って諦めたり。そのようなことをしなかった。神を頼りとしました。しかも、「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」と言っています。
キリストの復活の信仰が、パウロ自身の苦難の中で意味を持ったのです。キリストを死者の中から甦らせた神は私をもこの苦難から救ってくださる。パウロはそのことを信じていました。神は私をお見捨てにならない。パウロは神に望みを置いていました。キリストが十字架の上で死に、復活したという事実こそ、私の望みを確かなものとする保証に他ならない。私たちの前に立つ一人の信仰者が、私たちにそう証しします。

2025年5月26日月曜日

2025年5月26日の聖句

武力によらず、権力によらず
わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6)
天使はマリアに言った。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1:35)

おとめマリアから生まれたイエスさまは、いと高き神の霊、聖霊によって宿った子どもです。このお方はただ神の力だけによって肉を取り、私たちと同じ人間になられました。一人の人間でいらっしゃるこのお方は、聖霊と共にある神の子、神ご自身です。
今日の旧約にはこのように書かれています。「武力によらず、権力によらず、わが霊によるーー万軍の主は言われる。」主イエスさまの力の源は武力ではないし、権力でもない。ただ神の霊の力です。この世の力ではなく神の力によって歩まれました。
神の力は、私たちの間で弱さとして発揮されました。神ご自身でいらっしゃるお方が、私たちと同じ肉をお取りになったこと。私たちと同じ弱い体をお持ちになったこと。鞭打たれ、十字架に掛けられ、死なれたこと。そのような弱さの中で、神の霊の力が現されました。私たちの信じる神の子は、私たちのために弱くなってくださいました。
神様は、ご自分の「神らしさ」をへりくだることによって示してくださいました。神は私たちのところにまで降りてこられ、私たちの間でいちばん低いところに降ってくださいました。私たちのいるべき場所は、このお方がいらっしゃるところです。キリストの低さに驚き、キリストのいらっしゃるところにおらせてくださいと私たちは祈ります。今日、私はどこに生きるのか?そのことを問いつつ、歩んでいきたいと願います。

2025年5月25日日曜日

2025年5月25日の聖句

今週の聖句:
神をたたえよ。
神は私の祈りを退けず
慈しみを拒まれませんでした。(詩編66:20)

今日の聖句:
あなたは、貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまねいていてはならない。(申命記15:7)
私のきょうだいたち、「私には信仰がある」と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。(ヤコブ2:14)

神様が私たちに求めておられるのは、御言葉に聞いて、従うこと。ただ聞くだけ、あるいは聞き流してしまうことを神様はよしとなさらない。今日の御言葉はそのように語りかけています。
私たちは神の愛を信じ、どのような私であっても神が私に先んじて愛してくださっていることに信頼しています。しかし他方で貧しい人に心を閉ざし、手をこまねいているならば、神の愛は私たちにとっていかなる意味を持つのでしょうか。行いが伴わない信仰は何の役にも立たない、と聖書は言います。
耳が痛い言葉です。自分の実際の姿を考えると、胸がキリキリと痛むような言葉です。しかし、聞かなかったことにはできない。私たちを愛し、私たちを愛の人として生かす神の愛が私たちを包み込んでいるから。神の限りない慈しみの中で私も新しくなることができる。御言葉はそう約束します。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...