2015年2月15日日曜日

マタイによる福音書19:13-15「天の国は子どもたちのような者たちのもの」


この御言葉は教会の宝です。こういう主イエスのお言葉が聖書によって私たちにまで届けられているということは、この上ない賜物です。幼稚園の子どもの声が迷惑だという苦情が来ていると新聞で読みました。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」主イエスのところへ連れてこられた子どもたちのことも、弟子たちにとっては迷惑だったようです。しかし、主イエスはそのようにはおっしゃいません。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」教会にとって、子どもは付属物ではありません。それどころか、子どもの姿を通して、教会は天の国の福音が一体何なのかを知るのです。その意味で、子どもは教会の先生です。それでは、主イエスが「天の国はこのような者たちのものである」とおっしゃる「子どもたち」は一体どういう者なのでしょうか。主イエスのところへ連れてこられた子どもは、別段良い子だったわけではないと思います。それどころ、弟子たちに叱られたのを見ると、騒がしくて大人からしたら迷惑な有様だったのかも知れません。「子供たちを来させなさい」という主イエスの言葉は、「子どもたちを赦しなさい」とも訳せます。「天の国はこのような者たちのものだ」の「このような者たち」とは、教会にとっては受け入れるために赦しという痛みを伴うような者たち、ということです。大人の言うとおりにする良い子だとか、まるで天使のようだという大人の幻想の通りに行動してくれる子どもではなくて、大人からしたら困る、迷惑なままの子どもを赦し、受け入れよ、とキリストはおっしゃるのです。この「赦す」という言葉は第1821節以下の譬え話でも重要な意味を持つ言葉です。莫大な借金を主人から赦されたのに、自分が仲間に貸していたわずかな借金を赦せなかった僕の話です。この話は神と自分と隣人との関係を表す話です。わたしは人の罪を何回赦せば良いのか。いつまで我慢すれば良いのか。主イエスは、あなた自身が神から莫大な負債、罪を赦され、帳消しにされたのだから、あなたも同じようにしなさいとおっしゃいます。この僕にはただ赦されることしかできません、どうしたって返済しようがないのです。一方的に赦していただくしかないのです。子どもも同じです。ただキリストの祝福を頂くためだけに連れてこられました。頂く以外、他には何もできない。これぞ神と私との関係です。莫大な借財のような罪を赦して頂いただけ。だからあなたもこの子を受け入れよ、そこに天の国があると主は言われます。

2024年12月25日の聖句

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