2015年4月12日日曜日

ヨハネによる福音書20:1-18「再会という名の出会い」


マグダラのマリアという一人の女が主イエスの墓へ向かいます。日曜日のまだ朝早くにです。金曜日に主イエスがまだ十字架にかけられ、急いで葬られたばかり。遺体を清めようとしたのでしょう。主イエスのためにできるかぎりのことをして差し上げたいという彼女の思いが伝わってきます。彼女はかつて七つの悪霊をイエスに追い出して頂いたことがありました。どんなにひどい苦しみから救って頂いたのでしょうか。主の旅路に、他の男女の弟子たちと共に彼女も従っていました。しかし、その愛する主が十字架にかけられて殺されてしまった。その悲しみのどんなに深いことか、想像に余りあります。今日、私たちが聞くべき神の言葉として与えられている御言葉は、そんなマリアに、主が再び会ってくださったことを告げます。しかし、これは、再会のようでありながら、新しい出会いであると思います。マリアは新しくイエスと出会いました。その事が、彼女の「視線」を辿るとよく分かります。最初に、彼女は墓で石が取り除かれているのを見ます。墓荒らしだと思いました。二人の男性の弟子らを呼びます。その後、彼女はなお墓の外で泣きます。身をかがめて墓の中を見、二人の天使が見えました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と彼らは尋ねます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言って後ろを振り向くと、そこにイエスが立っておられるのが見えましたが、彼女にはそれがイエスだとは分かりません。主は尋ねられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」彼女はイエスを園丁だと思い込み、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。マリアの悲しみは、もうイエスが見えなくなってしまったことにあります。彼女はイエスの肉体に執着します。「わたしがあの方を引き取ります」には「主が墓から取り去られました」と同じ動詞が使われています。私が奪い返す、と言ったのです。この執着はある意味当然です。苦しみから救ってくださった、愛する主なのですから。しかし、イエスご自身は彼女の執着を拒んでおられます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」マリアはじっと墓の中だけを見ていました。過去だけを見つめていました。昔の思い出だけにすがっていました。過去の栄光の時代にすがりつくことは私たちにも良くあります。しかし、問題は彼女はそこで主のお姿が実はよく見えなくなっていたのです。イエスが目の前におられても分からないのです。どうしたら信じられるのか?主は彼女をいつものように「マリア」と呼んでくださいました。この主の呼びかけが目を開いたのです。主の御声は今も響いています。他のどこよりもはっきりと、礼拝において。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...