2015年5月10日日曜日

ルカによる福音書10:38-42「必要なことはただ一つだけ」


一読するだけで、何が起こったのかよく分かる話です。できればお一人おひとりに伺ってみたいです、この話を聞いてどう思われたのかを。それほど、読み手にあるインパクトを残す話です。恐らく、マルタに同情的な気持ちになる人が多いのではないかと思うのです。せっかく忙しく働いてもてなしたというのに、マリアは手伝ってくれない、そればかりか、主イエスまでマリアの肩を持つようなことをおっしゃる!何ということでしょうか。マルタを応援したくなる気持ちになるという人は、案外多いのではないかと思います。主イエスは常識外れのことをなさっている。そうは思われないでしょうか。当時の社会の背景を考えると、ますますそう思います。当時、聖書の教師の話を聞くのは男性だけでした。女性はマルタのように料理を作ったり家を整えたりと、もてなしをするだけです。神殿での礼拝も、やはり男性が主でした。その意味でも、マルタの行動は当時の常識にも則っています。マリアは当時の社会からすると非常識な振る舞いをしていました。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」マルタはもてなしのためにせわしなく働いていました。この「せわしなく働いた」という言葉は、原語では「中心から引き出される」というニュアンスがあります。マルタは本当はいるべきだった中心から引っ張り出されてしまった、心が空っぽになってしまった。「忙しい」という日本語の漢字はとてもよくできていますが、まさに心がなくなってしまったのです。これは私たちも身に覚えがあることで、忙しく働いている内に本来外せない中心から外れてしまうのです。マルタはどこにいるべきだったのか。イエスの足もとです。確かに、当時の常識ではそこは女性がいる場所ではなかったのかもしれない、男たちのためにごちそうを作ることが彼女に期待されていた社会的役割だったのかもしれない。しかし、主イエスはそのようにはお考えにならないのです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」マルタにもこの席に座って、私の話を聞いてほしいと主イエスは願っておられるのです。招いておられるのです。あなたは思い悩んでいると主イエスは指摘なさいました。「思い悩む」というこの言葉は、例えばコリントの信徒への手紙一7:32-33にも登場します。既婚者は配偶者を喜ばせようと、神とこの世との間で思い悩んでいるという話が登場しています。2日前に我が家に第二子が誕生しました。喜びのはずの子育てが時として思い悩みの種にもなります。忙しくて、本来いるべき中心から外れてしまうからです。主イエスが語ってくださる御言葉が必要なのです、誰にとっても!主はマルタを招いておられます。主の足もとへと。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...