主イエスが神殿で朝早くから教えておられたとき、ファリサイ派の人々が一人の女を連れて来ました。女は着の身着のままだったことでしょう。何しろ、姦通の現場で捕らえられ、ここまで連れてこられたのです。「こういう女は石で打ち殺せ」、そう律法に書いてあると彼らは言います。あんたはどう考えるのだ、イエスに詰め寄ります。イエスの教えを聞いていた民衆も石を手に、今にも彼女に投げつけようとしていたに違いない。怒り狂った。ふしだらな女だと。しかし、ただイエスお一人だけが違うことを言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」一人、また一人とそこから立ち去り、最後にはイエスと女だけになる。イエスは言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」皆が怒り狂って裁きました。しかし、イエスはそうではなかった。「わたしもあなたを罪に定めない。」これが、今日神が私たちに下さる福音の言葉です▼もしもわたしがこの教会の誰かと不倫をしたとしたら、おぞましいことですし、皆さんには想像するだけで気持ち悪いだろうと思います。彼女がしたのはそういうことです。倫理的にも道徳的にも社会的にも許されない罪ですし、生理的嫌悪感を覚える人が多いことです。そういう罪人を見つけて、お前は間違っていると皆で糾弾し、バッシングし、制裁を加えようとする。しかし、イエスはそうやって裁きの心に囚われた者たちの言葉に耳を傾けようとはなさいません。「イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。」明らかに、イエスは人々の裁きの言葉を聞くことを拒んでおられるのです。日頃から裁きの言葉に晒されている私たちです。テレビのコメンテーターや評論家の言葉も、電車につられている週刊誌の見出しも、ネットで話題になっていることも、殆どが人の噂や罪をあげつらう言葉です。隣国とも麗しい関係を結ぶことができていません。裁きの言葉が飛び交っています。そんな言葉にわたしの心も蝕まれているのだと思います。裁きの虜になった心は、殆ど病気にかかったようなものです。罪の病です。確かに姦通は恥ずべき罪です。しかし、主がもっと悲しまれるのは、一人の罪人をよってたかって非難し、自分は正しいと思い込んで裁きの快楽に酔いしれる者のことです。この私こそ、主に赦して頂かなくては生きていかれない罪人なのです。ファリサイ派とこの罪の女とどちらがより悪いかということではないのです。神の前に顔を上げられる者は、本当は一人もいないのです。しかし、主イエスが告げてくださいます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」やがて彼女は見たことでしょう、自分のために十字架にかけられたイエスを。罪の虜の私を救う方の姿を。
2025年4月7日の聖句
主は虐げられているすべての者のために、正義と公正を行う。(詩編103:6) だから、なすべき善を知りながら行わないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17) 主が、正義と公正を行われる。虐げられているすべての人のために。ここに、私たちのなすべき善がある。聖書はそのように言いま...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
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これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来な...