主イエスがシカルというサマリアの町の井戸におられたときのことです。その井戸に一人の女が水を汲みに来ました。真昼の井戸での出会いです。この「井戸」という場所に、何かシンボリックな意味を感じずにはいられません。井戸は古来とても大切なものです。旧約聖書を見ても井戸を巡る仁義なき争いが記録されています。サマリアの女は、この井戸を掘ったのはヤコブだと言っていますが、そのヤコブの父親のイサクも井戸の問題でとても苦労しました。井戸を巡る争いが続いたために、イサクは「争い」とか「敵意」という名前を自分の井戸につけてしまうほどです。日本のように小川が多く、緑が豊かな土地柄ではありません。井戸は文字通りのライフライン、命綱です。井戸がなければ生活は成り立たない。私たちに水道が必要なのと同じです。そして、井戸での水汲みは当時は女の仕事でした。通常、女たちは朝早くや夕方の涼しい時間に井戸にやってきます。しかし、サマリアの女は正午頃にやって来ました。暑い時間です。普通は誰も水汲みになんて行きません。16節以降の主イエスとのやりとりを見ると、そうしたい理由があったようです。誰とも会いたくなかったようです。井戸は生活の象徴です。井戸端の人間関係は自分を取り囲む生活そのものです。厳しい競争を勝ち抜くために、敵意や争いを抱くこともあるし、人に会うのもイヤで、わざわざ人目を避けた時間に仕事をすることもあるかもしれません。でも、そうやって汲んだ水は、切ないことに、どんなに飲んでもまた渇いてしまいます。競争で勝ち取った成果、物欲を満たした収穫物、周りの人への強烈な承認欲求、どれも、飲んでもまたすぐに渇いてしまいます。サマリアの女はかつて5人の夫がいて、今は別の男と同棲していました。どんな気持ちで、自分を求めてくれる人にすがってきたのだろうかと思います。そして、裏切ったり、裏切られたりしたのではないかと思うのです。この昼間の井戸は、彼女の渇きの象徴であるかのようです。そこに、主イエスがおられるのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」そんな水が本当にあるのでしょうか。彼女はイエスと出会って、話して、自分も神に祈れること、礼拝できることを知りました。真昼の井戸のような私も神に棄てられていないことを知りました。渇かない水を、彼女は飲んだのです。
2024年12月23日の聖句
私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。(詩編51:5) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) クリスマスにお生まれになった救い主は「イエス」と名付けられました。主の天使...
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神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...