2015年9月6日日曜日

マタイによる福音書第20章1から16節「驚くべきは神の気前の良さ」

「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」主イエスは譬え話の最後にそのように言われました。これは大変な言葉です。常識外れです。例えば、電車で座るための列一つを取ってみてもそうです。疲れて帰ってきて、今日はどうしても座りたくて、15分くらい小田急線新宿駅のホームで待ってやっと座れる。それなのに、やっとという時に駅員がやって来て、今日は列の後ろの人から座っていただきます何て言おうものなら、暴動が起きるでしょう。不公平だからです。しかし、神はそのようになさる、と言われるのです。夜明けからぶどう園で働いていた人に給料を支払うのは最後。その上、夕方5時に来て1時間しか働かなかった者にも、夜明けから一日中汗水垂らして働いた私にも、同じ額の給料しかくれない。時給の計算もできやしません。明らかに不公平です、私たちの常識からしたら。これは主イエスの譬え話です。この物語を聞くときに、自分がどこにいると考えるかでずいぶんと印象が変わります。自分は夜明けから苦労して働いた者なのか、それとも夕方来て1時間しか働かなかった者なのか。多かれ少なかれ、たいていの場合は自分はそれなりの苦労をしていると思っていますから、主イエスの話を聞いたときにも、不公平な話だ、と思うのではないでしょうか。旧約聖書のイザヤ書には「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なる、と主は言われる」という言葉が出てきます。確かにその通りです。主イエスがこの譬えで何を言わんとしているのか、俄には分からないのです。譬え話に登場する農場の主人は、不平を言った夜明け組の人に言いました。「私の気前の良さを妬むのか。」この言葉は、直訳をしてみると、「私が善い者だから、お前の目は悪いのか」という言い方です。目が悪いのだと言われます。だから、見るべきものが見えていないのだ、と。何が見えていないのか。主人はこうも言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」目が悪くなると、この主人(この譬え話の主人は神のことでしょう)の願いが見えなくなります。最後の者にさえも与えてやりたいという主人の願いです。そもそも、この主人は一日に何回も広場に出て労働者を集めてきました。本当は、そんな必要はなかったのかもしれません。夜明け組だけで人数は足りていたのかもしれない。それでも何回も広場に出たのは、一人でも多くの人に生きるための糧になる給料を支払ってやりたかったからです。そもそも、本当に私たちは列の先頭にいるのでしょうか?私たちはこの譬え話のどこに登場するのでしょう。これは理不尽な話ではなく、実は有り難い話なのではないでしょうか。神が理不尽な方だからこそ、私もまた救われたのです。

2024年7月14日の聖句

今週の聖句: あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。(エフェソ2:19) 今日の聖句: 地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のもの。(詩編24:1) ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者...