2016年1月10日日曜日

イザヤ書第63章16節 喜びはここにあります!

初めて会った人に、どうやって自己紹介をするでしょう。私であれば、「宮井岳彦です」とか、「座間市に住んでいます」とか、「さがみ野教会の牧師です」とか、そんなふうに言うことになるでしょう。それでは、そういう言葉の後に、「だから死んでも大丈夫です」と付けてみると、どうなるでしょうか。「私は宮井岳彦です。だから私は死んでも大丈夫です。」「私は座間市に住んでいます。だから死んでも大丈夫です。」「私はさがみ野教会の牧師です。だから死んでも大丈夫です。」どれも、とてもおかしな言葉です。どれもこれも「死んでも大丈夫」と言える根拠になっていません。しかし、たった一つだけ、そう言いうる根拠になる自己紹介があります。それは、「私は神の子です」!どうでしょう。「私は神の子です。だから私は死んでも大丈夫。」そう、あなたが神の子であることだけは例え死んでもあなたを支え続けるのです。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。(ヨハネ一31)」神は私たちをご自分の子どもと呼んでくださるほどに、私たちを愛してくださっているのです!『ワンダー』という米国人の作家が書いた児童文学を読みました。オーガストという10歳の少年が主人公です。この少年は先天的な理由で、顔のかたちが極端に崩れています。そのために、好奇の目にさらされて生きてきました。ずっと家で母親から勉強を教わってきましたが、中学校(日本で言うところの小五)に入るのを切っ掛けに、学校へ行き始めます。学校でもやはり人の目は辛く、傷つきます。いじめられ、親友に裏切られもします。しかし、次第に周囲は彼の心根の美しさに気づき、オーガスト自身も成長し、仲間が次第に増えていく、という物語です。この本の最後の方に出てくる父親の言葉が心に残りました。私は君の顔が大好きなんだ、君が自分の顔を気に入ってないことは知っているが、私はずっと君の顔を見ていたいんだ、と。読んでよかったと思える本でした。しかし、同時に思います。親の愛はそれほど理想的な愛ばかりでもありません。テレビを見れば毎日のように虐待のニュースが流れてきます。いや、テレビを付ける必要すらありません。他の誰でもなく、自分の子どもとの関わりの中で、もうすれすれだと怖くなることがあるのです。この子が「お父さん」と呼んだときに、幸福な父親体験をこれから重ねていくことができるのだろうか、と不安にさえなります。つまり、子どものことも父親のことも、「お父さん」として受けとめてくれる大きな存在が必要なのです。神は私たちをご自分の子どもと呼んでくださいます。愛することに失敗する惨めな私のことも、です。「あなたはわたしたちの父です。イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。(イザヤ63:16)」神はそれほど私を愛してくださっている。これほど大きな喜びがあるでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ自分の名前を知りません。私が自分は岳彦という名前だと知ったのは、親がそう呼び続けてくれたからです。神は呼び続けてくださいます。「お前は私の子、神の子」と。その声は、私が死を迎えたときにも変わりません。私たちの愛する者が死を迎えるときにも、神の子である恵みの事実は変わらないのです。

2024年6月17日の聖句

新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)  私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)   私たちの主を賛美する新しい歌は、主の奇しき業から始まります。主がなしてくださった御業に応えて、私た...