初めて会った人に、どうやって自己紹介をするでしょう。私であれば、「宮井岳彦です」とか、「座間市に住んでいます」とか、「さがみ野教会の牧師です」とか、そんなふうに言うことになるでしょう。それでは、そういう言葉の後に、「だから死んでも大丈夫です」と付けてみると、どうなるでしょうか。「私は宮井岳彦です。だから私は死んでも大丈夫です。」「私は座間市に住んでいます。だから死んでも大丈夫です。」「私はさがみ野教会の牧師です。だから死んでも大丈夫です。」どれも、とてもおかしな言葉です。どれもこれも「死んでも大丈夫」と言える根拠になっていません。しかし、たった一つだけ、そう言いうる根拠になる自己紹介があります。それは、「私は神の子です」!どうでしょう。「私は神の子です。だから私は死んでも大丈夫。」そう、あなたが神の子であることだけは例え死んでもあなたを支え続けるのです。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。(ヨハネ一3:1)」神は私たちをご自分の子どもと呼んでくださるほどに、私たちを愛してくださっているのです!『ワンダー』という米国人の作家が書いた児童文学を読みました。オーガストという10歳の少年が主人公です。この少年は先天的な理由で、顔のかたちが極端に崩れています。そのために、好奇の目にさらされて生きてきました。ずっと家で母親から勉強を教わってきましたが、中学校(日本で言うところの小五)に入るのを切っ掛けに、学校へ行き始めます。学校でもやはり人の目は辛く、傷つきます。いじめられ、親友に裏切られもします。しかし、次第に周囲は彼の心根の美しさに気づき、オーガスト自身も成長し、仲間が次第に増えていく、という物語です。この本の最後の方に出てくる父親の言葉が心に残りました。私は君の顔が大好きなんだ、君が自分の顔を気に入ってないことは知っているが、私はずっと君の顔を見ていたいんだ、と。読んでよかったと思える本でした。しかし、同時に思います。親の愛はそれほど理想的な愛ばかりでもありません。テレビを見れば毎日のように虐待のニュースが流れてきます。いや、テレビを付ける必要すらありません。他の誰でもなく、自分の子どもとの関わりの中で、もうすれすれだと怖くなることがあるのです。この子が「お父さん」と呼んだときに、幸福な父親体験をこれから重ねていくことができるのだろうか、と不安にさえなります。つまり、子どものことも父親のことも、「お父さん」として受けとめてくれる大きな存在が必要なのです。神は私たちをご自分の子どもと呼んでくださいます。愛することに失敗する惨めな私のことも、です。「あなたはわたしたちの父です。イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。(イザヤ63:16)」神はそれほど私を愛してくださっている。これほど大きな喜びがあるでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ自分の名前を知りません。私が自分は岳彦という名前だと知ったのは、親がそう呼び続けてくれたからです。神は呼び続けてくださいます。「お前は私の子、神の子」と。その声は、私が死を迎えたときにも変わりません。私たちの愛する者が死を迎えるときにも、神の子である恵みの事実は変わらないのです。
2025年8月30日の聖句
主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...