2016年2月21日日曜日

イザヤ書第48章6bから19節「新しいことが始まる」

先週月曜日にMさんが逝去し、木、金曜日に教会堂で葬儀をいたしました。個人的な思いを言うことをお許しいただくならば、さんは私にとっては始めて洗礼を授けた方です。葬り前夜の礼拝でもご紹介しましたが、洗礼を受けた頃にMさんが私にお手紙を書いてくださいました。そこには、養父Cさんのことが書かれていました。特に、さんの最期に良い看取りができなかったという後悔の思いが綴られていました。私は少しご自分に厳しすぎるのではないかと思いましたが、ご自身の思いとしては、呵責になっていたことは確かであると思います。Mさんが洗礼を受けるに際して明確に求めておられたのは、ご自分の罪を神さまが赦してくださることです。手紙には「神さま私はあなたの愛がなくては生きていけません。わたしの罪を打ち砕き御言葉によって新しくしてください」という祈りが書かれていました。神さまの御言葉は新しい出来事を起こします。御言葉が起こす新しい出来事。村崎さんはその出来事の証人です▼イザヤ書第48章は、とても具体的な歴史的な状況を反映した言葉です。イスラエルの人々は戦争に敗れ、国の主だった人々は新バビロニア帝国という遠い国へ捕囚として連れて行かれ、国が崩壊しました。バビロンで捕囚生活を送っていた者たちへの言葉です。預言者は、神はあなたたちに思ってもみなかった助けを与えてくださると告げます。それは、誰も「聞いたこともなく、知ってもおらず、耳も開かれなかった」ことです。当時、新興国ペルシアの王キュロスという人物が世界を席巻していました。このキュロス王がイスラエルを救うことになると預言者は言うのです。イスラエルの人々にしてみれば、祖国は崩壊し、今度は宗主国も不安定になり、これも戦争に敗れるかもしれない。不安だったことでしょう。いつまで経っても安定しない。しかし、預言者は、これは神が始めた出来事だ、神が思わぬところから救いを始めておられるのだ、と説きました。これは、今から2550年ほど前に起きた、世界史の中の出来事です。しかし、私たちと決して無関係ではないのです。神さまの御言葉が起こす出来事です。神が起こす御言葉の出来事にあずかるという点で、私たちと彼らは、全く同じ出来事に巻き込まれていると言えるのです▼ペルシアの王キュロスは、主なる神様を信じていたわけではありません。しかし、思わぬところで神は出来事を始めておられる。キュロス自身はまだ知らないけれど、彼は神の道具になって、イスラエルを捕囚から解放するために働くようになる。これは、自分たちの歴史を神との関わりで見つめ直すことを知っていた預言者の言葉です。もしも、かつてのバビロンとの戦争でイスラエルが勝っていたら、このような出来事を経験することはなかったでしょう。もしも、バビロンでクーデターでも起こして自分たちの手でどうにかしていたら、このようなところから神の業が始まるなどということを知ることはなかったでしょう。弱者であるからこそ知った神の御業です。自分にも神が働いてくださると、何も持たないからこそ知ったのです。イスラエルにとって、捕囚は、自分たちが神に背いてきたことを知る悔い改めの時間でもありました。この罪深い者にも神が働いてくださっている。そこに神の新しい出来事が始まっているのです。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...