2016年5月22日日曜日
使徒言行録第9章1から9節「あなたと出会いたい」
サウロという若者がイエス・キリストと出会いました。ファリサイ派と呼ばれる信仰者の一人です。彼らはとても熱心で、徹底した信仰の実践に生きていました。ですから、人々からはとても尊敬されています。このファリサイ派にとっての目の敵が、イエスと、イエスを救い主と信じる一派でした。サウロはとても熱心なファリサイ派でしたので、イエスを救い主と信じる者たち、すなわち教会を非常に厳しく迫害していました。サウロは教会を敵とし、また、イエスを敵として生きてきたのです。そんなサウロがイエス・キリストと出会い、サウロもまたイエスを自分の主、また救い主と信じるようになり、ついにはキリストの福音を宣べ伝える伝道者にまでなってしまいました。どうして、これほどまでの大転換をしてしまったのでしょうか▼ここで、少しだけ、わたし自身の事をお話ししたいと思います。私が初めて教会に行ったのは、三歳の時でした。私が通っていた幼稚園が、教会附属の園だったのです。それから、ずっと教会に育てて頂きました。中学生の頃にしばらく教会に行かなくなるようなときもありましたが、結局また戻りましたし、高校生になったら洗礼を受けました。どうして、私は洗礼を受けたのでしょうか。いろいろなことを言うことはできます。私は中高生の頃、ずっと、教会附属のボーイスカウトに所属していましたから、そこでの友だちやリーダーとのつながりがあったから。教会学校の先生が熱心に誘い続けてくださったから。ちょうど思春期の時期で、自分のことをそれまでと違った仕方で考えはじめていたから。そこにはこういう内的葛藤があった、こういう交友関係が影響した・・・。考えていくと、確かに私に影響を与えたことはたくさんあります。しかし、どれが決定的なのかはよく分かりません。何しろ、いろいろなことがあって、その時の私だったのですから。聖書を見てみると、サウロについての小会は驚くほど簡素です。精々、サウロが熱心な教会の迫害者、敵であったということくらいです。サウロがどういう経緯でこれまで生きたのかとか、どういう内的葛藤を抱えていたのかとか、そういうことには一切触れません。では、聖書は一体何を書いているのでしょうか。聖書が書いていることは、要するに、イエスがサウロに出会おうとされた、ということだけです。イエスがサウロと出会おうとされて、サウロはイエスと出会って、そして、サウロは変わってしまった。新しい人になった。でも、新しい人になるにいたるようなサウロの心の揺れや成長を促す悩み、そういうことは一切書かれていません。聖書は、そういうことに、どうやら注目していないようです。大切なことは、イエスが出会おうとされたから、サウロはイエスと出会った。それだけです▼これは、私の物語でもあると私は思います。元々はイエスの敵だったのです。いや、敵というような、サウロのような教会の迫害者であったわけではありませんでした。ずっと教会に育てて頂きましたが、私にとって神さまは空気のような存在であったのかもしれません。あって当たり前、でも意識はしない。ある人が、愛の反対は憎しみではなく無関心と言ったそうです。そうだとしたら、私はサウロよりももっと酷い仕打ちをしていたと言わねばならないでしょう。しかし、キリストは私とも出会ってくださいました。それは、キリストが、畏れ多いことに私と出会いたいと望んでくださったからなのです。
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