2016年6月12日日曜日

ローマの信徒への手紙第12章3から8節 「自分をどう評価していますか?」

最近メガネが歪んでしまいました。歪んだメガネは物が正しく見えませんし、頭痛もします。困ったものです。ものを見る目が歪むというのは本人の自覚がなくとも実にストレスフルな状況です。皆さんは自分をどう評価していますか?そのメガネが歪んでいると、自分では気づかない内に体や心に負担をかけることもあるかもしれません。私たちは日々評価にされています。学校でも、職場でもそうです。家庭だってお互いの評価の中で動いています。自分でも自分のことを評価します。上手く自分を評価するのは案外難しいものです。詩人のまど・みちおの代表作は「ぞうさん」です。
「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね
そうよ かあさんも ながいのよ。
ぞうさん ぞうさん だあれが すきなの
あのね かあさんが すきなのよ。」
鼻が長い動物はぞうしかいない。そんなぞうに向かって、ぞうさん鼻長いねぇと言えば、それはあなたの変な鼻は不良品だという響きがある。しかし、子象は大好きな母さんもお花が長いと嬉しそうに言っている。まどはそう言っていたそうです。聖書には「自分を過大に評価してはなりません」と書かれています。過大な自己評価も、過小な自己評価も、裏表のようなもので実態は同じです。自分で自分を見つめながら「長い鼻」を見つけ、自慢したり、自分を蔑んだりして、周りや自分を傷つけてしまいます。聖書は続けて言います。「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」では、「慎み深い評価」とは一体何でしょう?この言葉が聖書でどう使われているかを調べると、マルコ福音書5:15で「正気」という訳語で登場しています。これは悪霊にとりつかれて墓場に住み、自分を傷つけ周囲の人に恐れられていた人が主イエスと出会った物語です。この人は現代人そのものだと私は思います。彼は自分と悪霊とがもう区別も付けられませんでした。彼は自分のことが怖かったのでしょう。周囲の人も彼を恐れていました。そんな人が、イエスと出会っていやされました。キリストと出会って本当の自分を知ったのです。アメリカ合衆国長老教会の子ども用の信仰問答は第一問で「あなたは誰ですか」と問い、「わたしは神さまの子どもです」と答えます。そう、本当のあなたは神の子です!いつの間にか、そうではなくて、知らず知らずのうちに現代の悪霊の虜になっていませんか?現代の悪霊は、消費という名前かもしれませんし、便利とか、自尊心とか、成功という名前かもしれません。あなたはそういうものの所有物ではないのです。神の子です。神のものです。悪霊のものになってよいほど価値低きものではないのです。「信仰の度合い」の度合いというのは「はかり」という字です。片方の皿には私が乗っていて、もう片方に私たちはいろいろなものを入れて自分の価値を計るわけです。それが自己評価ということの意味です。私たちのもう片方の皿には、何が乗っていますか?神が各自に分け与えてくださった信仰のはかりには、キリストが乗っています。私たちの価値を計るために、神はキリストの命の重さで量ってくださいました。ただし、この価値は独りで見いだすことができません。自分が教会というキリストの体の一部になっていると知るときに気づく価値であるからです。他人という存在が不可欠なのです。自分という確固とした存在がまずあるのではなく、出会いの中で、他人との不一致の中でしか知り得ない私の価値がある。それが聖書の伝える真理なのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...