2016年6月5日日曜日

ルカによる福音書18:1-8「気を落とさず、絶えず祈ろう」

主イエスは譬え話の名人と言われます。実際にいくつもの印象的な譬え話を聞かせてくださいました。今日の譬え話はその中でも特に異彩を放っています。物語に登場する不正な裁判官は、自分のところに義しいことをするようにしつこくやって来たやもめについて、「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目にあわすにちがいない」と言いました。さんざんな目にあわすというのは、平手打ちを食らわすという意味の言葉なのだそうです。ある人は言います。これはグロテスクな話だ。あまり行儀よく訳してはいけない、と。神も畏れず人を人とも思わぬ裁判官もかなりのものです。イスラエルの裁判官は神の律法に則って厳粛に裁くものですが、この人は強者におもねり、賄賂を取り、弱者の権利など考えたこともなかったのでしょう。しかし、やもめの方もさしたるもの。それならその裁判官に平手打ちをお見舞いするほどの勢いで迫ります。これは、主が私たちに気を落とさずに、絶えず祈ることを教えるために話された譬え話です。祈りというには、随分とグロテスクな話ではないでしょうか▼19世紀末のドイツで多くの人に影響を与えたブルームハルト牧師は言いました。「救い主が語っておられるのは、悲しいやもめが生きているような時代に向かってであります。」それは、不正がまかり通り、弱い者が踏みにじられる時代です。どうしてこんなことが許されるのか、ということが私たちの周りにはたくさん起きているのではないですか。わたしは正直に思います。自分はこの叫びを共にしているのか、と。カトリックの森一弘司教は『人が壊されていく』という御著書で、どうして今の日本社会は人間としていき続けることがこんなに難しいのか、と問います。その難しさのために若い人はのたうち回って悲鳴を上げ、通り魔や親殺しなど、報道されるような事件を起こしている。森司教が指摘するのは、経済を最優先する日本社会のシステムです。教育や家庭さえも、経済的に社会が発展するための人材を送り出す場になってしまったと指摘します。この叫びは、しかし、私たち自身の叫びでもあります。今朝のこの礼拝にも、悲しみを抱えたままで来ている人がいます。「神さま、助けて!」としか言いようがありません。カトリック教会の司教の話をしましたが、教皇フランシスコは昨年9月欧州がシリア難民の問題のただ中にいたときにこんなことを言いました。「福音を具体的な形で示してほしい。欧州の小教区、修道院、巡礼地は難民を1世帯ずつ受け入れてください」、と。誠実に、悲しむ声に耳を傾け、一緒に叫びましょう、と言うのです。主よ、助けてください、と。そのために、家族としてその痛みを共に担おう、と言うのです▼しかし、祈り続けることは簡単ではありません。神を信じる者の試練とは、祈り続ける意味を見失うことだと言っても良いもしれません。神の顔が不正な裁判官の顔にしか見えなくなることがあるのです。結局、強者が栄え、不正がまかり通り、弱者は蹂躙される。経済システムが優先される。祈っても無駄。現実は変えられない。諦めて現実と信仰との折り合いを付ける。それが上品な信仰者ですか?主は言われます。あの不正な裁判官でさえ、やもめの訴えを聞いた。まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた者のために、当然の義しいことをなさらないはずがあろうか!共に祈りましょう。涙を流して祈り続けましょう。不正を訴えて。主よ、助けてください、と。

2024年12月21日の聖句

私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(詩編84:3) (マリアへのエリサベトの言葉)私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。(ルカ1:43~44) エリサベトは既に老齢でし...