イエスは罪を赦すお方だ、ということは福音の基礎であり、同時にクリスチャンが学びつづけることです。当然とも思えることであり、しかししっかりと知らなければならないことです。本日の聖書箇所では、イエスというお方がある家で、人々の病気をいやしていたという状況から話が始まります。中風(体の麻痺)にかかっていた男を、ほかの男たちが運び、二階にのぼり、屋根を壊し、つり下げた。たくさんの人で押し合い圧し合いになっている家に、その男たちがなんとかしてイエスさまに治していただこうと無理をしながら入ってきた。イエスという方は、彼らの行動を見て言われたのです。「人よ、あなたの罪は赦された。」一瞬静まり返るような静けさが、そこにはあったことでしょう。あまりにも途方もない言葉をイエスは言われたのです。
CSルイスという人がこのようなことを書き残しています。「イエスは人々にむかって『あなたの罪は赦された』と言った。その人たちが罪を犯した相手の人間には一言も相談せずに、である。彼は、まるで自分がすべての罪に最大の関わりをもっているかのように、つまり、自分が最大の被害者であるかのようにふるまって、何のわだかまりも感じない。もしこの態度が意味を持つならば、イエスという男が本当に神であって、(そして今も神であって)、人が罪を犯すたびに神の法則が破られ、神の愛が傷つけられるという場合に限るのである。これに対して、もし神でもない者の口から、『あなたの罪は赦された』という言葉が出たとするならば、それはわたしに言わせてもらえば、歴史上比類ない最大のたわごとであり、最大の思い上がりであると言うほかない。」(『キリスト教の精髄』94頁より)
私たちは「イエスは罪を赦すお方」と言ったとき、このお方をもはや単なる道徳の教師としては見えなくなるのです。この方はただの嘘つきか、あるいはまことに神であられるか、どちらかしか選べない。偉大な道徳の教師などとは言えなくなるのです。
この方は私たちがまだ罪について知らない時に、私たちを呼び出し、罪を-そのどんな罪をも-赦してくださったのです。だからこそ、わたしたちは正直に自分たちの罪を、この方に告白できる。赦していただいていることを知ることができるのです。私たちの信じていることは、たいへん恐るべき、そして恵みに満ちた事実なのです。この事実こそが、私たちの日々のよりどころであり、ともし火であり、希望なのです。あなたの罪は赦された。この主イエスの言葉を信じ、今週も歩んで参りましょう。