2016年7月10日日曜日

ヘブライ人への手紙第4章14から16節 「神のシンパシー」

今年は私たちの教会が栗原伝道所として生まれてから40周年で、さまざまな形でこの教会に関わってきてくださった牧師をお招きして説教をして頂いています。来週は大井啓太郎牧師がお越しくださいます。40年間、私たちの教会は過ごしてきました。それは、40年間、祈りが積み重ねられてきたということです。40年間、この地で神を礼拝する者がいた、ということです。信仰が萎えた日もあったでしょう。祈れない思いに捕らわれた日もあったかもしれません。しかし、神はいつでも私たちが祈るのを待っていてくださいました。私はそう信じています。神が本当におられるのなら、なぜこのようなことが起こるのかと問わずにおられない思いになることも少なくありません。テロのニュースも、人種差別を発端とすると思われるニュースも絶えることがありません。戦争も終わりません。今日は選挙もあります。ホッと胸をなで下ろす結果にはならないかもしれません。しかし、私は思うのです。神を信じる者は、闇が全くない世界の中を生きるわけではないのです。むしろ、闇に包まれた世界の中で、ほのかにともる灯を持つ者ではないかと思うのです。この世界の中で苦しんだり、呻いたりして、悲しみ、涙を流す私たちを、神はどこか遠くで眺めているのではなくて、一緒になって呻きながら寄り添ってくださる方であると私は信じています。「この大祭司(イエスのことです)、は私たちの弱さに同情できない方ではありません。」同情という言葉は、英語のシンパシーという言葉の語源になった言葉です。一緒になって苦しむ、という字でできあがった言葉です。神は私たちを遠い天の彼方で眺めているのではなくて、一緒になって苦しんでくださいます。人の痛みに本当に心を寄せて一緒に苦しむのは簡単なことではありません。悲しむ者を慰めようとして却って傷つけてしまった経験は、誰でもしたことがあると思います。イエスは私たちの弱さに同情できる方です。今日の箇所の最初にイエスについて「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」というふうに説明されています。学者たちは言います。「もろもろの天を通過された」とは、神の子イエスが人間として生まれて、人間としての肉体の弱さを味わったこと、友に裏切られ、十字架にかけられ、罪を犯されなかったのに罪人として神から見捨てられて死んだことを指している。そのイエスが天に昇り、神の右の座についておられる。私たちの弱さを知り尽くしたイエスが、神の右にある、恵みの座についておられます。私たちの祈りを神に執り成すためにです。大祭司というのは、祈りを執り成す人のことです。だから、大胆に恵みの座に近づこう、つまり、遠慮せずに神に祈ろうと私たちは招かれています。先週も、困難なことがあったことでしょう。何でこんなことに、と問わずにおれないこともあったでしょう。情けない気持ちになることもあったでしょう。実は、私たちは弱いだけではなくて罪深いのです。罪が生み出す困難に苦しんでいるのです。それを全部祈りましょう。イエスが執り成してくださるからです。私たちが信じる神でいらっしゃるイエスは祈りを失うという最悪の罪を犯す者を執り成してくださる方です。漢字の通りに「優しい」方です。そのことを信じて、私たちが公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この世界でキリスト者として、望みを持つ者として、旅を続けていこうではありませんか。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...