今年は私たちの教会が栗原伝道所として生まれてから40周年で、さまざまな形でこの教会に関わってきてくださった牧師をお招きして説教をして頂いています。来週は大井啓太郎牧師がお越しくださいます。40年間、私たちの教会は過ごしてきました。それは、40年間、祈りが積み重ねられてきたということです。40年間、この地で神を礼拝する者がいた、ということです。信仰が萎えた日もあったでしょう。祈れない思いに捕らわれた日もあったかもしれません。しかし、神はいつでも私たちが祈るのを待っていてくださいました。私はそう信じています。神が本当におられるのなら、なぜこのようなことが起こるのかと問わずにおられない思いになることも少なくありません。テロのニュースも、人種差別を発端とすると思われるニュースも絶えることがありません。戦争も終わりません。今日は選挙もあります。ホッと胸をなで下ろす結果にはならないかもしれません。しかし、私は思うのです。神を信じる者は、闇が全くない世界の中を生きるわけではないのです。むしろ、闇に包まれた世界の中で、ほのかにともる灯を持つ者ではないかと思うのです。この世界の中で苦しんだり、呻いたりして、悲しみ、涙を流す私たちを、神はどこか遠くで眺めているのではなくて、一緒になって呻きながら寄り添ってくださる方であると私は信じています。「この大祭司(イエスのことです)、は私たちの弱さに同情できない方ではありません。」同情という言葉は、英語のシンパシーという言葉の語源になった言葉です。一緒になって苦しむ、という字でできあがった言葉です。神は私たちを遠い天の彼方で眺めているのではなくて、一緒になって苦しんでくださいます。人の痛みに本当に心を寄せて一緒に苦しむのは簡単なことではありません。悲しむ者を慰めようとして却って傷つけてしまった経験は、誰でもしたことがあると思います。イエスは私たちの弱さに同情できる方です。今日の箇所の最初にイエスについて「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」というふうに説明されています。学者たちは言います。「もろもろの天を通過された」とは、神の子イエスが人間として生まれて、人間としての肉体の弱さを味わったこと、友に裏切られ、十字架にかけられ、罪を犯されなかったのに罪人として神から見捨てられて死んだことを指している。そのイエスが天に昇り、神の右の座についておられる。私たちの弱さを知り尽くしたイエスが、神の右にある、恵みの座についておられます。私たちの祈りを神に執り成すためにです。大祭司というのは、祈りを執り成す人のことです。だから、大胆に恵みの座に近づこう、つまり、遠慮せずに神に祈ろうと私たちは招かれています。先週も、困難なことがあったことでしょう。何でこんなことに、と問わずにおれないこともあったでしょう。情けない気持ちになることもあったでしょう。実は、私たちは弱いだけではなくて罪深いのです。罪が生み出す困難に苦しんでいるのです。それを全部祈りましょう。イエスが執り成してくださるからです。私たちが信じる神でいらっしゃるイエスは祈りを失うという最悪の罪を犯す者を執り成してくださる方です。漢字の通りに「優しい」方です。そのことを信じて、私たちが公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この世界でキリスト者として、望みを持つ者として、旅を続けていこうではありませんか。
2025年4月4日の聖句
主は私たちを再び憐れみ、私たちの罪をことごとく、海の深みに投げ込まれる。(ミカ7:19) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) なんてありがたい御言葉なのでしょうか。主は私たちを憐れんでく...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
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これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来な...