2016年7月3日日曜日

マルコによる福音書第4章35から41節 「恐れずに信じよう」

今日の話はわたしがとても好きな話です。激しい突風に進み悩む舟の中、イエスは艫の方で枕して寝ておられた!何とも奇妙な話ではないでしょうか。どうしてこのような話が聖書の中に収められているのかと不思議に思います。イエスが風も波も沈めてくださいます。そういうすごい奇跡を起こすスーパーマンだ、と言いたいわけではないのだと思います。それだけなら、わざわざ寝ていたと書く必要はないでしょう。私はこの福音書を書いたマルコの教会が、この話を聞く度にまさに自分たちの話だと信じていたのだと思うのです。教会は舟です。突風に晒されて、今にも転覆して乗組員がみんな波にのみ込まれてしまう。そんな恐怖を覚えている。そんな嵐の中で、イエスは同じ舟の中にいるのに、眠っておられます。神を全く信頼して、全き平安の中で、寝ておられる!弟子たちは、同じ舟の中にいるけれど、イエスの信頼が分からないから、慌て、焦っています。怖がっています。波に巻き込まれる!滅びにのみ込まれる!マルコの教会は、この舟こそ私たちの教会の姿だと感じたから、この話を私たちにも伝えたのです。この1月からわたしは日本中会の伝道委員会のメンバーになりました。教会の歩みを支援する委員会です。入ってみてよく分かりました。どの教会も、私たちが今直面しているのと同じ問題に直面しています。伝道がなかなか進まなかったり、経済的にも貧しいのです。あの舟に乗っている弟子たちは、恐らく、一所懸命にマストをたたんだり、水を掻き出したり、櫂を漕いだり、色々したのでしょう。それなのに、イエスは一向に助けてくださらない。何もしてくださらない。彼らは分からないのです。神へのイエスの全き信頼が。ですから、叫びます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」、と。これは、私たちの叫びではないでしょうか。ですから、弟子たちがご自分を起こしたとき、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」とおっしゃいます。叱ったのです。主イエスが叱られたのは、風であり、湖でありますけれども、もっと本質的には私たちの心の中にある風であり、湖であるのかもしれません。それは、不信頼という嵐です。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」主イエスにとって、本当の問題の急所は、舟の外から、舟に対して、どんな風が吹きつけているのか、湖がどんな波を立てているのかということであるよりも、むしろ、その舟の乗組員が神への信頼に生きているのか、ということであったのではないでしょうか。ヘンリ・ナウエンというカトリック教会の司祭がこのような祈りを残しています。「愛する主よ、心が酷く動揺し、騒いでいても、そこには慰められる想いもあります。たぶんあなたは、私が感じたり、味わったり、理解もできない仕方で、私の内に働いておられるのでしょう。あなたに集中できず、心が落ち着かず、乱れています。あなたがここにおられず、見捨てられたように感じています。でも信仰によって、あなたにすがりつきます。あなたの聖霊は私の思いや心より更に深く、更に奥まで達しておられ、またその働きの初めは、気づかないくらい密やかであると信じます。」弟子たちが乗るあの舟はどうなったのでしょう?向こう岸、目指す地に着きました。この舟はどんな嵐に見舞われても、必ず目指す地に着くのです。風や湖は必ずイエスに従います。だから、そちらの心配はいりません。主への信頼こそ、神からの招きの急所です。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...