2016年7月24日日曜日

マタイによる福音書6:12-15 「主イエスに罪を赦していただくとは」

 今朝も、安息の日を私たちは過ごすことができています。素晴らしいことです。礼拝とは、この世の何にも勝る時間です。この世界の初めからおられ、2000年前に地上を生き、今もこの世界を統べ治められている主イエス・キリストが、私たちの罪を今日も赦してくださっているという事実が知らされるという時間が礼拝という時間です。
 主の祈りを教えてくださったイエスさまは、何よりも人の罪が赦されることを第一にしたお方です。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように」と祈るようにと、私たちに教えてくださいました。
 神の国とはいったいどのような所だろう?と考えますと、私は神の国とは罪の赦しと切っても切り離せないな、ということを思います。たとえな、主イエスが私たちを神の国まで乗せていってくれる飛行機のような存在なのかな?と想像したりしますと、「うーん、どうも違うようだ」と思います。私たちは何も変わらないままで、飛行機を乗り継いで神の国に入るようなことでは、結局のところそこでもまたケンカをするのではないかと思います。私たちは「私たちが赦したように、私たちも赦してください」と祈るように教えられている。逆に言えば「もし私が赦さないのだったら、あなたから罪赦されずとも構いません」と祈っているということです。たいへん恐ろしい祈りを祈っていることになります。
 ですから、私はこの祈りをどうしても祈ることができなかった時期がありました。どうしても赦せないという人がいた。私たちは親しいほど、「なんで分かってくれなかったのか」「なんでこういう風にしてくれなかったのか」と怒りを覚えることがあります。ずっと一緒にすごしてきたはずの人ほど、赦せないということがある。そんなときに「『私が赦したように、私の罪を赦してくれ』と祈れ!だなんてそんなの無理です」と思います。一方で、「イエスさま、私に一言の相談もなしに、あんな人を赦すのですか?あなたの赦しはそんなにも安いのでしょうか?」という思いになることがあります。主イエスが罪を赦すお方であるということは、キリスト者の最大の希望であるのと同時に、人間にとっては、最大のつまずきでもあります。
 ですが、私たちは「赦す」ということを求められていますし、私たちの力ではできなくとも私たちの願いです。「赦せない」ということは、まるで過去に遡り、その人に裁きを下すことを願っているように思います。まるで神になろうとしていることなのでしょう。しかし、私たちは主イエスから赦され、人を赦すようにと招かれています。それは、神以外の誰からも支配されず、そして誰をも支配しない生き方へと招かれているということです。全き自由な生き方を私たちは与えられています。礼拝という時が、その事実を知り、自由な生き方へと私たちを向かわせてくれる、この世の何にも勝る素晴らしい時です。今週も神さまに与えられた力で生きていくことができますように。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...