主イエスは悲しむ弟子たちを前にして言います。「あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。」私たちの心にひっかかる言葉ではないでしょうか。「何も願わなかった」なんてあり得るでしょうか。「今は、あなたがたは悲しんでいる」と言われることは、すっと心に入ってきます。確かに、悲しんでいる心を持つことがある。生活していて、すべてがすべて喜びに満ちているということは無い。22節の主イエスの言葉は、まず初めに私たちの今の姿を見つめるようにと導く言葉のようです。
今、あなたがたも悲しんでいる。あなたがた「も」と言います。他に誰が悲しんでいるのでしょうか?前の節の21節を見てみますと、「女は子どもを産むとき、苦しむものだ。」と言われています。その文脈で、主イエスは「あなたがたも悲しんでいる」と言われる。つまり、女性が子どもを出産する時のように、喜びを前にした悲しみを今、あなたがたは抱いているのだ、と主イエスは言われているのです!これが主イエスの見つめる私たちの姿です。なんと嬉しい事でしょうか。
ですが、本当にそうなのか…と半信半疑な気持ちになってしまうことも私たちにあるでしょう。そして、続く主イエスの言葉にひっかかりを覚えます。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。」とても驚きを感じます。もしかすると怒りを持ちたくなるかもしれない。「何を仰いますか!!私は願っているではありませんか。お聞きにならないのは、あなたではありませんか。」と、言いつつ、「では何を願っているのか?」と問われると、言葉が詰まるということも思います。本当に私たちは願いを持っていたのでしょうか。
主イエスの言葉というのは、私たちの心の底まで触れてくる言葉です。何をあなたは願っているのか?38年間回廊で横たわっていた男の方に、「良くなりたいか」と尋ねられる主イエスは、私たちにも「何を願っているのか」と問われます。願いを言葉にするということは難しい事でもあります。ですが、主イエスは私たちに言われます。「願いなさい。」「わたしの名によって願いなさい。」そこで、主イエスが共におられることを私たちは知るのです。願いを打ち明けることを待っておられる主イエスとの出会いを私たちは経験するのです。主イエスとの出会いによって、私たちは喜びに満たされます。
この方は私を見捨ててはおられなかった。この方は私の願いをご存知であった。「わたしは再びあなたがたと会う」と主イエスは言われます。「あなたがたを見る」という意味としても理解できます。主イエスは私たちのことをご覧になっておられる。悲しみに捉われそうなときに、むしろ主イエスは私たちの願いをご覧になっている。素直にこの方に打ち明け、祈り求める生活を送りたいと願わされます。