2017年11月12日日曜日

ルカによる福音書第15章1から7節「よろこんだ羊飼い」

異常な話。私はこのたとえ話を読むといつもそう思う。100匹の羊の世話をする羊飼い。しかし、その内の一匹がいなくなってしまった。すると、主イエスはおっしゃる。「99匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」まるで、そうするのが当たり前だろうと言わんばかりだ。しかし、そうだろうか?この譬え話を耳にした多くの人の感想は、「野に取り残された99匹はどうなってしまうのだろう?」ではなかろうか。それに対して、「あなたは99匹ではなくて、いなくなった一匹の方かもしれませんよ」と説明してみせる言葉をよく聞く。しかし、それで話は済むのだろうか。たった一匹いなくなってしまった羊は私かもしれない、他の仲間たちにも羊飼いにも迷惑をかけ、迷子になんてなってしまう鈍くさい羊は私かもしれない。そうやって身の程を知ることには意味があると思う。しかし、改めて考えたい。話はそれで済むのだろうか。むしろ、私は、この話の異常さ、奇妙さをそうやって説明してしまわない方が良いのではないかと思う。この羊飼いは、異様な人だ。99匹を野原に残しておくなんて、どう考えてもおかしい。おかしいものは何と説明して見せても、やっぱりおかしいのだ。さらに言えば、この一匹が見つかったときの喜び方も異様だ。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」私は羊飼いの生活はよく知らないが、そこまで喜ぶものなのだろうか?家族の中で喜ぶということはあるだろうが、わざわざ近所の人を呼んできて一緒に喜んでくださいとまで言うものなのだろうか?少々、大げさすぎないだろうか。やはり、この羊飼いは、普通の人ではないのである。そして、この主イエスの譬え話は、これがある種異常な話だということが大切なのである。この話をなさった主イエスは、わたしたちの常識から推し量ることのできる「常」なる方ではない。常とは異なる。なぜか。神の子だからだ。神のなさり方は、わたしたちの「常」ではないのだ。わたしたちは一匹よりも99匹に価値を見る。一つには、経済的な価値が圧倒的に違う。羊飼いにとっての羊は愛玩動物ではなく、商売道具である。しかし、この羊飼い、つまりこの羊飼いの姿に託して語られている主イエスご自身は、そのような基準で羊を、つまりわたしたちのことをご覧になってはいない。経済的にしても何にしても、どの程度の価値があり、どの程度の見返りがあるかというところでわたしたちをご覧にはならない。たった一匹が、見つけ出すまで捜し回らなければならない特別な存在なのだ。あるいは、あの異様なまでの喜び方。これが神の御心なのである。主イエスがいなくなった羊であるわたしたちを見つけてくださった時、天が揺れるほどの喜びがある。神が喜ばれ、天使たちもそこで喜んでいる。羊飼いである主イエスがわたしたちを見つけてくださる、それは、わたしたちが主イエスと出会い、神の愛を知り、自分の罪を知って悔い改めるということだ。わたしたちの一人が洗礼を授けられるということだ。その時、天が揺れるほどに神は喜んでおられる。あなたも共に喜ぼう。主イエスは私たちを喜びへと招いておられる。   

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...