2017年12月3日日曜日

マタイによる福音書24:36〜44「ただ神だけはご存知だから」

今日から待降節です。待降節、アドベントはクリスマスを待ち望むとき。私たちはそう考えています。確かにその通りですが、ただ、これは主イエスがまだ生まれていないことにしておいてクリスマスを待つというわけではありません。今、私たちは第二のクリスマスを待っています。キリストが再び来てくださるのを待っているのです。T..ロングという米国の説教者の『何かが起ころうとしている』というアドベント・クリスマスの説教集を最近手に入れて、さっそく読み始めました。表題になった説教は今朝の箇所のマルコによる福音書の並行記事の説教です。「何かが起ころうとしている。」私たちはそれを期待しています。それはちょうどもうすぐ子どもが生まれる夫婦が、子ども部屋のペンキを塗ったりベビーベッドを組み立てたりする気持ちのようです。何かが起ころうとしています。クリスマスツリーを飾り、クリスマスの買い物にショッピングモールに行くのは、クリスマスに何かが起ころうとしているからです。私たちは、主イエスが私たちのところへ来てくださって、私たちを慰め、救ってくださるのを待っています。しかし、他方では、1226日になるとクリスマスは終わり、ツリーも片付けられ、正月になれば誰もクリスマスのことなど覚えていません。特に何も起こらず、いつものようにクリスマスが終わったのです。何かが起ころうとしている・・・。本当なのでしょうか?私たちには神さまに助けていただきたいこと、救っていただきたい現実をたくさん抱えています。食べたり飲んだりしながら営んでいく毎日の営みの片隅には、私たちのため息が淀んでいます。年末を迎えて一年を振り返れば後悔が残っているし、これまでの生き方をふり返れば、昔に戻ってやり直したいことが誰にだっていくつもあります。そんな私を救ってくれるような何かが、本当に起こるのでしょうか?主イエスは、「起こる」と言われます。キリストは来られます。「人の子は思いがけないときに来る」と主は言われます。救い主は再び来るのです。但し、思いがけないときに。私たちには、その時が分からない。誰も知らないのです。8月に仙台市若林区の荒浜小学校を再訪しました。震災の一ヶ月後にボランティアに行った地域です。小学校が震災遺構になっていました。津波で地域全体が倒壊した場所です。小学校の屋上にたくさんの人が避難して、いつ来るか分からない救助を待っていました。私たちを助ける助けは一体いつ来るのでしょうか?食べたり飲んだりして生きる私たちの日常を全部のみ込んでしまうほどの大きくて恐ろしい力に、私たちは日々さらされているのです。ノアの時代の人々は、そんな毎日の生活を送りながら、洪水が来ることを誰も気づきませんでした。しかし、考えてみれば目の前でノアが箱舟を造っていたはずです。目には入っていても、その意味するところが分からなかったのでしょう。実は、私たちの日常生活の目の前には、箱舟があるのです。聖書の原語では「箱舟」はもともと単なる「箱」です。舟の形ではありません。神殿の形です。ノアの箱舟は、洪水の中で礼拝する民がいるという物語です。神を礼拝し、神に祈る。それが主が「目を覚ましていなさい」とおっしゃったことの意味です。目を覚まし、祈りつつ生きていきましょう。私たちにはキリストに来て救っていただかなければどうにもならないことが溢れています。「主よ、来てください」と祈りつつ生きていきましょう。 

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...