自分は一体何者なのか。そのことを魂の深いところで知ることが、私たちの信仰生活にとってとても大事なことであるのだと思います。特に信仰の危機や苦しみの時、悲しみの時に、私は一体何者なのかということが決定的な意味を持ちます。27節に「羊」という言葉が登場します。私たちは主イエス・キリストという羊飼いに養われる羊の群れです。私たちはそのことを誇りに思っていたいのです。今日の朗読箇所には、ペトロと主イエスご自身という二つの在り方が描かれています。その姿が私たちに問いかけるものがあるのです。
主は弟子たちに「あなた方は皆わたしにつまずく」とおっしゃいました。そうしたらペトロは答えます。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」主はさらに言われます。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」するとペトロは力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」ペトロは言い張っています。この会話は対話になり損なっています。ペトロには自分を変えるつもりがさらさらないからです。主イエスの言葉が右の耳から左の耳へ通過しています。しかし、自分についてペトロが言い張る言葉は、的外れでした。これは私たちの姿ではないでしょうか。主イエスはペトロが何ものなのかをよくご存知です。しかし、ペトロ自身はそのことをよく知らないのです。だから、「たとえ、みんながつまずいても…」と傲慢にも言い張ることになる。それでは、私たちは本当は一体何者なのでしょう。
かつて、現代のカトリック教会の宗教改革と言っても良い、第二バチカン公会議を招集したヨハネス23世という教皇がいました。このような言葉を残しています。「みずから身を屈して、迫害・遺棄・裏切り・死に、羔として身をささげる、いとやさしきわれらのイエズスを見ると、心は戸惑い、はじ、ひれ伏す。もう語ることもできず、うぬぼれさえ、その鼻っぱしを引き込める。」主イエスをじっと見つめていれば、私たちが一体何者なのかが分かると言います。主のいとやさしいことに気づいたとき、私たちは自惚れや傲慢から解放されます。主は「あなた方は皆、わたしにつまずく」と言われます。なぜ躓くのか?主はそれを聖書の言葉で説明なさいます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」つまり、私たちが主という羊飼いが養う羊の群れだからです。もしも無関係な羊飼いが打たれたとしても、野良羊はびくともしないでしょう。自分には関係ありませんから。しかし、羊飼いの群れの羊であれば、羊飼いが打たれたらそれこそ一大事です。羊たちは散ってしまいます。私たちが主の十字架につまずくのは、実は私たちが主の羊にして頂いているからなのです。
主は祈っておられます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」主がここで注目しておられるのは、神が何をしておられ、何を望んでおられるかということです。ペトロが注目していたのは自分のことでした。私たちの目を主に向け直すとき、私たちは自分が何ものなのかを知ることができます。私は罪人の分際だけれど、その私を主は御自分の羊としてくださいました。主は先だって導いてくださいます。
2025年12月11日の聖句
私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。(エレミヤ31:3) 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16) 神さまの愛は私たちにはあまりにも広く、長く、高く、深くて、想像が及びま...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。(詩編39:13) (一人の罪深い女が)イエスの背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。イエスは女に言われた。「あな...