2018年2月25日日曜日

マルコによる福音書第14章26から36節「傲慢と謙遜」

自分は一体何者なのか。そのことを魂の深いところで知ることが、私たちの信仰生活にとってとても大事なことであるのだと思います。特に信仰の危機や苦しみの時、悲しみの時に、私は一体何者なのかということが決定的な意味を持ちます。27節に「羊」という言葉が登場します。私たちは主イエス・キリストという羊飼いに養われる羊の群れです。私たちはそのことを誇りに思っていたいのです。今日の朗読箇所には、ペトロと主イエスご自身という二つの在り方が描かれています。その姿が私たちに問いかけるものがあるのです。

主は弟子たちに「あなた方は皆わたしにつまずく」とおっしゃいました。そうしたらペトロは答えます。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」主はさらに言われます。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」するとペトロは力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」ペトロは言い張っています。この会話は対話になり損なっています。ペトロには自分を変えるつもりがさらさらないからです。主イエスの言葉が右の耳から左の耳へ通過しています。しかし、自分についてペトロが言い張る言葉は、的外れでした。これは私たちの姿ではないでしょうか。主イエスはペトロが何ものなのかをよくご存知です。しかし、ペトロ自身はそのことをよく知らないのです。だから、「たとえ、みんながつまずいても…」と傲慢にも言い張ることになる。それでは、私たちは本当は一体何者なのでしょう。

かつて、現代のカトリック教会の宗教改革と言っても良い、第二バチカン公会議を招集したヨハネス23世という教皇がいました。このような言葉を残しています。「みずから身を屈して、迫害・遺棄・裏切り・死に、羔として身をささげる、いとやさしきわれらのイエズスを見ると、心は戸惑い、はじ、ひれ伏す。もう語ることもできず、うぬぼれさえ、その鼻っぱしを引き込める。」主イエスをじっと見つめていれば、私たちが一体何者なのかが分かると言います。主のいとやさしいことに気づいたとき、私たちは自惚れや傲慢から解放されます。主は「あなた方は皆、わたしにつまずく」と言われます。なぜ躓くのか?主はそれを聖書の言葉で説明なさいます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」つまり、私たちが主という羊飼いが養う羊の群れだからです。もしも無関係な羊飼いが打たれたとしても、野良羊はびくともしないでしょう。自分には関係ありませんから。しかし、羊飼いの群れの羊であれば、羊飼いが打たれたらそれこそ一大事です。羊たちは散ってしまいます。私たちが主の十字架につまずくのは、実は私たちが主の羊にして頂いているからなのです。

主は祈っておられます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」主がここで注目しておられるのは、神が何をしておられ、何を望んでおられるかということです。ペトロが注目していたのは自分のことでした。私たちの目を主に向け直すとき、私たちは自分が何ものなのかを知ることができます。私は罪人の分際だけれど、その私を主は御自分の羊としてくださいました。主は先だって導いてくださいます。   

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...