2018年7月22日日曜日

コリントの信徒への手紙一第1章18から25節「愚かな言葉が世界を救う」

「十字架の言葉」という言葉から、今朝の御言葉は始まっています。更に、21節を見ると、「神は、宣教という愚かな手段で信じる者を救おうと、お考えになったのです」といわれています。この「宣教」という言葉は、説教と訳すこともできる言葉です。十字架を語る説教によって、神さまは信じる者を救おうとなさいました。本当に、愚かな手段だと思います。一人の人間の口に、神さまがご自分の独り子の命を懸けてくださった救いの御業を預けてしまわれるのですから。神さまは、愚かな手段をお選びになったと思います。しかし、神さまはその愚かさをお喜びになりました。不思議なことです。しかし、確かに、私も、十字架の言葉によって救っていただきました。この救いを世界が待ち望んでいると信じて、今日も、聖書の御言葉、福音の言葉に傾けて生きたいと願います。
今朝の御言葉を繰り返し読んで、私が強く思い出した主イエスの譬えがあります。先週の水曜日の教会祈祷会で読んだところです。ルカによる福音書12:13-21の愚かな金持ちの譬え話です。ある人が主に願いました。私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください、と。主は、「貪欲に注意しろ」といいながら、譬えを話し始めます。ある金持ちの畑が豊作で、倉に入りきりません。彼は、倉を壊して新しいのを建てようとし、こう言います。これから先何年も生きていくだけの蓄えができた。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ、と。しかし、その夜の内に彼のいのちは取られます。神は言われます。「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と。そういう譬え話です。これは、私たちの感情を逆なでする物語です。どう読んだら良いのか、当惑する話です。しかし、今朝のコリント一の御言葉が、そのヒントになるように思います。あの金持ちは、豊かになったとき、これまでのキャパシティではそれを収められないと分かり、もっと豊かになるための倉を建てました。これは私たちの常識とも合致する振る舞いだと思います。右肩上がりに成長することが進歩だ、という価値観です。そんな彼は、自分の命がどこから来てどこに行くのかを顧みず、神さま抜きでやっていけると思っていました。でも、それは愚かな考えだと主イエスは言われます。神さまは、ご自分が小さく、貧しくなることで私たちを救おうとされます。神さまは小さくなられ、ご自分が屈辱を受けることで私たちを救おうとなさいます。それは、私たちから見たら心がざわつく、常識外れで奇妙な救いなのかも知れません。19節に旧約の引用があります。イザヤ書29:13-14。この背景になっているのは紀元前八世紀のイスラエル。周辺諸国の安全保障環境が悪化し、軍事同盟の締結によって生き延びようとします。ところが預言者イザヤは、静まって神さまにもう一度立ち帰ろうと呼びかけますが、王は口先だけ神を求めても実際には軍事同盟に頼る政策を打ちました。これも愚かな金持ちと同じく、常識的な振る舞いだと思います。しかし、結局神を信じるというのは建前だけのことで、本音では別のものを頼って生きていました。この世の知恵では、大きくなることや右肩上がりや強くなることにしか価値が見いだされないのです。しかし、神さまはご自分が弱くなり、侮辱され、十字架にかけられることで私たちを救おうと決断されたのです。神さまは十字架に隠されています。しかしこの十字架の言葉が世界を救う。神の愚かさが私たちを救うのです。

2024年6月17日の聖句

新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)  私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)   私たちの主を賛美する新しい歌は、主の奇しき業から始まります。主がなしてくださった御業に応えて、私た...