2018年7月8日日曜日

コリントの信徒への手紙一第1章4から9節「神は真実な方です」

ルカによる福音書10:17-20に、主イエスに派遣された72人の弟子たちが帰ってきたときのイエスさまとのやりとりが記録されています。彼らは華々しい成果を上げてきたようです。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」悪霊は人間の力を越えた存在ですが、主のお名前は更に力強かった。特別な経験です。喜んで主に報告した。しかし、イエスさまは言われます。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」弟子たちは自分たちのしたことや成果を喜びましたが、主イエスはむしろあなたたちが何ものなのかを思い出して、そのことを喜べと言われます。すなわち、神に覚えていただいていることを。今朝のパウロの手紙は、感謝から始まっています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。」神の恵みがコリント教会の人々に向けられたことを感謝している。神さまが恵み深く教会を覚えていてくださっているという現実からスタートします。あの時の弟子たちは、いわば自分たちのDoingを誇っていましたが、主イエスは神にある新しいBeingを喜べと言われます。パウロの感謝も同じです。教会とは何ものなのか?キリストにある神の恵みを頂いている者たち。そのことを、パウロは神さまの前で感謝しています。私たちは、どうでしょうか?神さまの前で、感謝から始めているのでしょうか?コリント教会の現状は、パウロの目から見て、決して簡単なものではありませんでした。5節には言葉と知恵とあります。この教会は言葉においても知恵においても混乱していました。礼拝の時に、他の人には理解できない神秘的な祈りをしている者がいました。哲学が盛んな町です。知恵に富む者がいて、そうではない者との間に軋轢がありました。しかし、その困った現実を見つめながら、パウロはまず感謝することから始めています。あなたがたの言葉や知恵を豊かにしてくださったのは神だ、と。私たちは不平不満の天才です。自分の理想通りではない現実を見て、いつもどこかで不平不満を抱えている。それは、自分の成果や理想、あるいは上手くいかなかった挫折感や理想と矛盾する現実への失望から始めているからです。しかし、私たち教会は、本当は何ものなのか?私たちに言葉を与え、知恵を与えたのは、しかも豊かに与えてくださったのは神だと言うのです。神がそのように働いてくださった。そういう神のアクションから始めたときに、そこに感謝が生まれるのです。私たちのありようが修正されるのは、恐らく、自分がどこを目当てに生きているのかという生きる目的が明らかになるときだと思います。7節を見ると、「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」とある。キリストを待ち望む。それが、私たちの生きる目当てです。幼心に、明日、我が家で教会の集会があると家が片付いていた記憶があります。誰を迎えようとしているのか、ということが家での過ごし方も修正します。私たちはキリストを迎えるために生きている。そのことに気づくと、私たちの生き方も、変わり始めます。私は一人の信仰者としても一人の人間としても全く不真実です。しかし、神はそうではない。「神は真実な方です。」だから、この方に依り頼みましょう。それが、私たちキリストの教会の姿です。

2024年12月21日の聖句

私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(詩編84:3) (マリアへのエリサベトの言葉)私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。(ルカ1:43~44) エリサベトは既に老齢でし...