2018年12月23日日曜日

詩編第113編「クリスマスの歌が、あなたの口にも」

 今日の説教後の讃美歌は262番「聞け、天使の歌」というものです。「聞け、天使の歌『御子には栄光、地には平和あれ、世の人々に。』」最初のクリスマスに羊飼いらが聞いた天使の歌です。私たちは、ただ聞くだけではありません。天使の歌を聴いて、一緒に歌います。あの夜、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子を見つけに行った羊飼いたちも、やはり天使の歌をうたいながらベツレヘムに向かったのでしょうか。神学生の時、合唱部でクリスマスにメサイアを歌いました。救い主の預言から始まり、主イエスの誕生、生涯、十字架、そして復活を歌い上げます。メサイアのクライマックスは、やはりハレルヤ・コーラス。「ハレルヤ」とはヘブライ語で「主を賛美せよ」という意味です。今朝の詩編第113篇の冒頭にも登場しています。「ハレルヤ、主の僕らよ、主を賛美せよ、主の御名を賛美せよ。」ハレル(賛美せよ)が三度も繰り返されています。これは、私たちを賛美に巻き込む詩編です。「今よりとこしえに、主の御名がたたえられるように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美されるように。」賛美は、時間も、場所も乗り越えます。私たちが信じ、賛美している神さまは、マリアが賛美し、ダビデが賛美した神さまと同じ方です。日の昇るところから、日の沈むところまで、世界中のあらゆるところで神を賛美しています。アメリカのルイビルでも、ブラジルのジョタカ村でも。それだけではない。私たちの目の前にいて礼拝をしている子どもたちも、その孫だって、同じ神を賛美し、「ハレルヤ」と天使と一緒に歌うのです。
 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」しかし、いと高きところにおられるはずの神の子イエスは、もう、高い所におられません。「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く起き、なお、低く下って天と地を御覧になる。」天よりも高い神の子イエスは、しかし、低く下ってこられました。この「下る」という字は、詩編147:6でも遣われています。そこでは「逆らう者を地に倒される」の「打ち倒す」と翻訳されています。投げ捨てると言っても良い言葉です。神さまは、ご自身を投げ捨てて、引く地に下ってこられた。その低く投げ捨てられたお姿が神の栄光だ、と言います。
 私たちの社会は、高く上に登ることにばかり価値を置いているように感じます。今年は自然の脅威にさらされた年でした。夏のすさまじい暑さ。西日本豪雨。北海道の地震。しかし、私たちの社会はどうだったのでしょう。災害と呼べる暑さの中で社会的関心が集まっていたのは、その時期に開催されるオリンピックへの心配でした。サマータイムを導入しなければマラソンができないと真剣に議論していました。西日本豪雨の後、今も屋根にブルーシートをかける家があるといいます。それをよそに万博開催に浮かれています。私たちの社会は、あまりにも上を見ることだけを大切にしてしまい、神さまを忘れてしまったようです。神は、御自分を投げ捨てて、私たちのところへ低く下ってきてくださいました。この世の弱い人、乏しい人、生産性がないと切り捨てられる人のところへ来て、共に苦しみながら肩を抱き上げてくださいます。それが、キリストが飼い葉桶に生まれたということです。だから「地には平和」と歌える。ここに神の栄光が現れているのです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...