今日からアドベントを迎えました。アドベントの色は紫です。これは、教会では悔い改めを象徴する色です。歴史の教会は、クリスマスを前にした今の季節を悔い改めをもって過ごしてきました。私たちもそこから学びたいと思います。私たちの間にお生まれになった御子を飼い葉桶に追いやり、十字架にまで追いやった私たちの罪を悔い改めるときとして、この季節の祈りを重ねていきたいと願います。
教会は罪人の群れです。それは抽象的なことではなく、具体的で実際的なことです。「日常の生活にかかわること(4節)」です。私たちはいわば「具体的な罪人」です。教会は善人の集まりというイメージが一般にあるのではないかと思います。多分、私たちは口では謙遜に振る舞いながら、実際には同じように思っているところがあるのかもしれません。だから、しばしば教会で人間関係に躓きます。罪人の教会だということがよく分からなくなるからです。
しかし、実際のところ、教会は罪人たちの教会です。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」と言っていますが、これらは実際にコリント教会の中で問題になっていたのではないかと思います。そして、ここに列挙されている悪徳は、恐らくコリントの町の中では多くの人に受け入れられていた習慣だったのではないかと思います。コリントの町でも倫理に外れていたかも知れません。しかし、そのタブーを破ることが許容される町だった。ところが、キリスト者達はキリストと出会いました。それでもって、生き方が新しくなるはずでした。新しい人生が始まるはずでした。それなのに、新しくなることが出来ない。これまでの生き方を変えることができない。それが、教会で実際に起きていた事柄だったのではないかと思うのです。
1節以下を見ると、裁判の話が登場します。パウロの激しい感情が伝わる文章です。具体的にいかなるトラブルがあって裁判ざたになったのかは分かりません。文章から推測すると、何らかの金銭トラブルかもれ知れません。しかしいずれにしても、当時のギリシア世界では、現代日本に生きるものが想像するよりも頻繁に裁判が起きていたようです。しかも、たいていの場合は金持ちに有利に話が進む。公正な裁判ではありませんでした。奪い取られるのは貧乏人です。他の人を犠牲にして自分は裕福になる。この町ではごく自然なことでした。ところが、そんな彼らがキリストと出会った。それは大事件です。自分の生き方がすっかり新しくなってしまうような。それなのに、今でも古い生き方をしているのはなぜか、とパウロは問うのです。不義を行い奪い取るような生き方を続けるなら、それはキリストと出会った者として不自然だと訴えます。
キリストと出会った者の悔い改め。それは、主のもとに帰ること以外にはありません。私たちは主から離れていました。「しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」私たちは洗礼を受けました。キリストのものとなりました。かつては違ったけれど、今や私たちは神のもの。神のものとして、自然に生きます。