2018年12月9日日曜日

コリントの信徒への手紙一6:12-20「体を尊ぶ生活」


 今年、二名の教会員が亡くなりました。わたしが母教会でお世話になった方の葬儀にも数件出席しました。個人的には、わたしを可愛がってくれた伯母も亡くなりました。肉体を保つ私たちは、弱い存在です。葬儀は、そのことを強く思わされる場目です。しかし、その弱いわたしたちが、この弱い肉体をもって神を賛美します。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(20節)」私たちは神を賛美します。それは、私たちが、いまもうすでに、神のものとされているからです。キリストという代価でもって支払われている。なんと高価な代価でしょう。神さまは、私たちにそれだけの値をつけてくださいました。弱くてもろい肉体を持つ私たち。それがキリストという代価で神のものとされた。だから、私たちはこの体で神を賛美します。「自分の体で神の栄光を現しなさい」。私たちの信仰は、この肉体を大切に考えます。神さまは、この肉体を救ってくださいます。「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」。この肉体がやがて復活します。スイスの神学者、ルードルフ・ボーレン牧師は御自分の年老いた体を浴場でしげしげと眺めながら、この体が復活するのかと愛おしく見つめたそうです。私たちの体も、同じなのです。
 この体が復活する。その事実が、私たちの生き方を定めます。ここでは買春の話が出てきます。コリントがあるギリシアでは肉体と魂を切り分けて考えていました。信仰は魂の話で、肉体は別のこと。神を信じれば魂が肉体から救われる。肉体には価値がないので、どう生きようが自由です。それで、娼婦のところに入りました。私たちから見たらあまりにもとんでもない話で、無関係なような気もします。しかし、同じ根を持つ問題はあると思います。それは「信仰は心の問題」という根です。だから、自分の肉体を持つものとしての生き方はまた別、と思い込んでしまう。しかし、聖書は、本当に具体的な、弱くてもろく、その上融和に弱いこの肉体を持つ私がどう生きるのかを問うているのです。今日の15から18節で、このことを実際に問題にしています。そして私たちの根本は15節「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」です。キリストの体の一部となった自分の体を、女性を生徒欲望の対象としか見ず、金の力で一体になるように使って良いのか、と問います。私たちは、自分の振る舞いを、「わたしの体もキリストの体と一部」と信じることから決めているでしょうか?
 世界の声は、私たちの価値を貶めるものばかりです。若い人には、自分の性を安入りさせる情報に溢れています。年をとれば、若くなくなれば価値がないと言われます。この体は、欲望を満足させたり孤独感を埋めたり、古くなれば価値がないようなものなのでしょうか?聖書は、決してそのようには言いません。あなたのその体が、キリストの体の一部なのだと言います。あなたのその体がやがて復活するのだ、と。このもろくて弱いからだが。私たちはこの体で神を賛美します。このわたしのためにも、キリストが代価になって支払われたからです。わたしの肉体には、それほどの価値があるのです。わたしはもう、神のものだから。だから、あなたは尊いのです。

2024年5月16日の聖句

主は高殿から山々を潤す方。主の業の実りで地は満ち足りる。(詩編104:13) 人々が十分食べたとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と言われた。集めると、人々が大麦のパン五つを食べて、なお余ったパン切れで、十二の籠がいっぱいになった。...