2018年12月16日日曜日

コリントの信徒への手紙一7:1-7「賜物としての人生」

 わたしが学生の頃に出会った、少し年下のあるキリスト者がいました。彼は言いました。「自分は、独身に召されているのではないかと思う」と。若い私には本当に衝撃的な言葉でした。どうしてそう思うに至ったのか、もっと詳しく聞かせてもらえばよかったと思います。ただほとんど確実だとわたしが思うのは、彼は、今朝私たちに与えられているこの聖書の御言葉を、何度も繰り返し読み、向き合ってきたに違いない、ということです。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」とパウロは言いました。わたしはその後結婚して、今は子どもまで与えられました。しかし、主からの問いとして、彼のあの言葉は今でも消えていません。
 今朝の聖書の御言葉は、一見すると、とても結婚に対して後ろ向きなように見えます。「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と言っている。妥協策だと言っているようです。しかし、他のところ、例えばエフェソのしんとへの手紙などで、パウロは結婚の尊さについても語ります。夫と妻との関係を、キリストと教会との関係になぞらえて語ります。パウロは結婚生活の尊さやすばらしさも認めていたに違いない。ただ、どうしてそれをすばらしく尊いものと言いうるのか、というその急所に私たちの目を向けさせようとしていたのではないかと思います。
 「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」と言います。結婚するか独身でいるか、それは神がそれぞれに与えてくださった賜物だと言うのです。私たちが結婚をするのか、それとも独身なのか、いずれにしてもそれは神に与えられた人生です。神に与えられたものとして、私たちの人生は尊いのです。それが急所です。
 1節では、「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい」と言っています。この「男は女に触れない方がよい」という部分は、コリント教会がパウロに主張した言葉ではないかと思われます。コリント教会のあるものは、肉体を軽んじ、性的放縦な生活を送る者がいました。しかしその反対に、性を汚れた者として徹底した禁欲生活を主張する者もいたのです。それで、パウロに教会から送った手紙に、そのようなことを書いた。性を含む結婚生活は、尊いものではない、と。しかし、考えてみれば、この肉体も、肉体が性欲を持つという事実も、神が与えてくださったものです。神に造られたものとして、この肉体も尊いのではないでしょうか。
 創世記が伝える最初の夫婦のアダムとエバ。神は人が寝ているときにその妻を造りました。伴侶はただただ神に与えられた賜物なのです。夫婦となった二人は、しかし、蛇に唆されて神を捨てました。その時から、夫婦は支配し、支配される関係になってしまいました。夫婦生活が主導権争いの場になってしまった。ところが、パウロは言います。「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っています。」全くの夫婦同権を主張します。神の前で生きるとき、夫婦の関係も新しくなる。私たちはそれぞれに賜物として与えられた人生を、神の前で生きる恵みに招かれています。

2024年3月29日の聖句

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