2019年1月26日土曜日

2019年1月26日(創世記42)

今日の通読箇所:マタイによる福音書12:1~22、創世記42、詩編31

創世記42;

世界中を襲った飢饉の時、エジプトはヨセフの指導によって豊かでした。飢饉を予期しておらず、備蓄もなかった周辺諸国に住む者たちは飢え、食料を求めてエジプトにやってきます。ヨセフの家族、ヤコブとその息子たちも例外ではありませんでした。10人の息子たち(ヨセフの弟を除く兄たち)はエジプトへ下り、ヨセフとは知らずに彼の前にひれ伏して食物を分けてくれるようにたのみます。
ここから物語は始まって、ヨセフは自分の水戸とを隠しながら末弟ベニヤミンを連れてくるように要求します。ベニヤミンは、兄弟たちの中で唯一ヨセフと同じ母から生まれた人でした。ヨセフは兄たちにかなり厳しく接しています。
私は今日の御言葉を読んで、少し不思議な気持ちになりました。ヨセフ以外の登場人物たち、父ヤコブや兄たちの気持ちは、分かる気がします。食物がない焦燥感やエジプトでの厳しい仕打ちへの恐れ、一人が人質にされたときの痛み、かつて弟ヨセフを捨てたことへの罪責感、帰り道に支払ったはずの銀が返されているのを見つけたときの恐怖、末息子ベニヤミンを連れて行きたいと言われたときのヤコブの胸を裂くような痛み・・・。ところが、ヨセフの気持ちだけはよく分からなかったのです。彼は、復讐しているのでしょうか?かつての夢が現実になり、優越感に浸っているのでしょうか?家族の姿を懐かしんでいるのか、悲しんでいるのか?どうなのでしょう。もしかしたら、彼自身にもよく分からなかったのではないかとも思います。
ただ一つ確実なことは、ベニヤミンだけは手元に置きたいという願いです。そこにはこの長い年月の孤独や弟を求める思いが入り交じっている。そのためにヨセフが兄たちに命じたことは、父にとっては本当に過酷な要求でした。愛妻の忘れ形見ベニヤミンは父にとっても大事な息子です。
私たちには、時に、自分のしていることや口から出てくる言葉がよく分からなくなってしまうことがあります。特に自分が被害者だと思っているとき、自分の要求はすべて正当だと思い込んでしまいます。そのために悲しむ人がいることに思いが及ばなくなってしまう。ヨセフもそうだったのかもしれません。
このヨセフ物語が伝えているヤコブとその子どもたちを救うための神様の大きな御業は、そういう人間の心の混乱の中で、静かに進んでいるのです。私たちの小さな心を高く上げて、神様を仰ぎたく願います。

2024年5月3日の聖句

耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。(レビ19:14) (イエスの言葉)あなたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。(ルカ6:36) 悪意を持ってわざと耳の聞こえない人を呪ったり、目...