2019年2月19日火曜日

2019年2月19日(出エジプト記37〜38)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙9:1~18、出エジプト記37~38、詩編57~58

出エジプト記37~38;
モーセを通して神様に指示されたとおりに、幕屋と礼拝で使う祭具とが造られていきます。「これらは、証しの幕屋である幕屋建設の記録である。モーセの命令に従い、祭司アロンの子イタマルの指導の下、レビ人の奉仕によるものである(38:21)」。そしてその記録を読んでいくと、箱にしても贖いの座にしても、燭台、香をたく祭壇、焼き尽くすいけにえの祭壇など、どれもが恐るべき正確さで、指示通りに造られていることに気づきます。この正確な工程を記録することに、この出エジプト記は並々ならぬ関心を抱いていることが分かります。どうしてなのでしょうか。
それは、礼拝の一つひとつが、神様のご命令に基づいていることに私たちの注意を向けさせようとしているからなのだと思います。言葉を換えれば、私たちの礼拝の出発点は、私たちの願いやニードを満たすことではなく、神様の御言葉なのだと私たちに気づかせるためです。
だから、今朝の新約の御言葉ではこのように言われていました。「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです(ローマ9:16)」。私たちの思いを超える神様の憐れみが、私たちを救ってくださいます。それは、私たちのニードや願いを超えてすばらしい救いです。私たちは「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とあれました(ローマ3:24-25)」。私たちのための贖いの座は、キリストです。どんなにすばらしい意匠よりも遙かに神の恵みを映すこの方が、神の憐れみによって私たちを罪から救ってくださるのです。

2025年1月15日の聖句

姦淫してはならない。(出エジプト記20:14) 夫は妻を蔑ろにしてはならない。妻も夫を蔑ろにしてはならない。(1コリント7:3) 姦淫というと、浮気や不倫という言葉とすぐに結びついて考えられます。しかし単にそれだけではなく、聖書はもっと積極的にこのことを考えているように思います。...