今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙14、レビ記11~12、詩編66~67
レビ記11~12;
清い動物と汚れた動物、水の中に住むもの、鳥、虫などについて、何を食べてもよいのか、何は食べてはならないのかを細かく定めています。正直に言って、私たちにはついて行かれないところがあると思います。汚れた動物が触れた土器や、動物が死んだ場合の処置についても書かれています。とても細かいです。
ここを読むと、創世記第一章の動物の分類とよく似ていることに気づきます。創世記第一章でも、造られたものを細かく分類していました。それは、混沌の秩序化であったのだと思います。そして、創世記第一章とレビ記とは、関わりが深い。つまり、清いものと汚れたものとをこれだけ細かく分類しているのは、混沌の秩序化ということなのだろうと思います。
私たちには、自分の生活が神様の御前で何を意味しているのか、丁寧に考えることが少ないのではないかと思います。しかし、神様は言われます。「私は主、あなたがたの神である私が聖なる者であるから、あなたがたも身を清め、聖なる者となりなさい(11:44)」。聖なる者とは、神のものだということです。私たちは、自ら神のものとして生きるために、自分自身を献げます。
しかし、私たちが毎日ごく普通に生活するだけでも、ここに書かれている汚れと無縁で生きるのは全く不可能です。特に第12章に書かれている出産などに関わることも、その代表的なことであろうと思います。
つまり、私たち自身には、神様のものとして、聖なる者として生ききることは不可能と言わざるを得ない。日常生活の感覚として、私たちは「汚れ」と言うことを知らされます。それは、神の聖ということが私たちからあまりにも遠く、私たちが汚れを通してしか聖なる神を知ることができないからです。
しかし、その方が、この世界を造ってくださいました。清いものも、汚れたものも。汚れを不可避的に負う私たちのことをも。私たちがたとえ汚れと混沌の中でうめいているのだとしても、神は私たちをご自分のものとしてくださいます。私たちの日常生活を救うために、キリストは私たちの所へ来てくださったのです。
レビ記11~12;
清い動物と汚れた動物、水の中に住むもの、鳥、虫などについて、何を食べてもよいのか、何は食べてはならないのかを細かく定めています。正直に言って、私たちにはついて行かれないところがあると思います。汚れた動物が触れた土器や、動物が死んだ場合の処置についても書かれています。とても細かいです。
ここを読むと、創世記第一章の動物の分類とよく似ていることに気づきます。創世記第一章でも、造られたものを細かく分類していました。それは、混沌の秩序化であったのだと思います。そして、創世記第一章とレビ記とは、関わりが深い。つまり、清いものと汚れたものとをこれだけ細かく分類しているのは、混沌の秩序化ということなのだろうと思います。
私たちには、自分の生活が神様の御前で何を意味しているのか、丁寧に考えることが少ないのではないかと思います。しかし、神様は言われます。「私は主、あなたがたの神である私が聖なる者であるから、あなたがたも身を清め、聖なる者となりなさい(11:44)」。聖なる者とは、神のものだということです。私たちは、自ら神のものとして生きるために、自分自身を献げます。
しかし、私たちが毎日ごく普通に生活するだけでも、ここに書かれている汚れと無縁で生きるのは全く不可能です。特に第12章に書かれている出産などに関わることも、その代表的なことであろうと思います。
つまり、私たち自身には、神様のものとして、聖なる者として生ききることは不可能と言わざるを得ない。日常生活の感覚として、私たちは「汚れ」と言うことを知らされます。それは、神の聖ということが私たちからあまりにも遠く、私たちが汚れを通してしか聖なる神を知ることができないからです。
しかし、その方が、この世界を造ってくださいました。清いものも、汚れたものも。汚れを不可避的に負う私たちのことをも。私たちがたとえ汚れと混沌の中でうめいているのだとしても、神は私たちをご自分のものとしてくださいます。私たちの日常生活を救うために、キリストは私たちの所へ来てくださったのです。