今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙13、レビ記9~10、詩編65
レビ記9~10;
アロンの息子であるナダブとアビフが死にました。礼拝に使う香炉を、命じられていない規定外のもので献げたため、火になめ尽くされてしまったのです。あまりにも恐ろしい事件です。さらに、モーセはアロンの他の二人の息子たちに言いました。「髪を乱すな。衣服を裂くな。そうすれば死ぬことも、怒りが全会衆に及ぶこともない。あなたがたの同胞であるイスラエルの家は皆、主が火で焼いたことを嘆き悲しんでもよい。しかし、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入り口から外に出てはならない。あなたがたには主が注がれた油があるからである(10:6-7)」。あまりにも厳しい言葉です。自分の兄弟が死んだというのに、喪に服すことも許されず、なお神殿のための働きを続けるようにと言われました。どうして、こんなにも厳しいのか。
神様はアロンにこのように言われます。「聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものを区別し(10:10)」するように、と。アロンとその子らは神のために働くように、神のものとされた。だから、悲しみ方においても区別されるべきではないか、というのです。しかし、これまで悲しいことを素直に悲しいと言うことのできなかった経験がある人にとって、あまりにつらい言葉ではないでほうか。
しかし、感情の表出が許されていないわけではありません。16節以下で、アロンの死ななかった息子たちが礼拝に際して規定に従って食べるべきであった食事をしなかったことが問題になっています。しかしこのときは、アロンたちの言い分の方が通りました。
神に仕えるものは悲しんではいけないというのではなく、それにふさわしい悲しみ方があるということなのだろうと思います。悲しみは私たちの心を堅くします。心の柔らかい悲しみ、それは、キリストの元に帰る仕方で悲しむことであるのかもしれません。主は、「悲しむ人々は、幸いである」と言ってくださいました。「その人たちは慰められる」と。主イエスの御前で重荷を下ろし、この悲しみをもお任せするものを、主は、必ず覚えていてくださる。。私はそう信じています。
2025年7月2日の聖句
主は高くおられ、低くされた者を顧みる。遠くから、高慢な者を見抜かれる。(詩編138:6) (ある金持ちの言葉)「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは...
-
さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
-
仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
-
神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...