先日あるアスリートの方が御自身の白血病を告白し、「私は、神様は乗り越えられない試練は与えないと思っています」と言っておられました。今朝の聖書の御言葉から引かれたものでしょう。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、のガラ得る道をも備えていてくださいます。」力に満ちた慰め深い言葉です。試練の中で聖書の言葉が慰めとなり、神様と出会うことができるなら、それは本当にすばらしいことだと思います。このようなときに「困ったときの神頼み」と批判する向きもありますが、私はむしろ困ったときに本当に神様に頼られるなら、それはすてきなことだと思います。むしろ、私たちの現実は「困ったときの神離れ」です。平穏無事なときには神さまを信じられても、試練の中で神様から離れてしまう。信じても一つも良い事なんてなかった。私の不安は全然解消されない、と。そんな時、先ほどの言葉は、私たちに尚いかなる意味を持つのでしょうか?
10:1から順番に見ていくと、私たちの信仰の祖先が神に導かれてエジプトを脱出したときの話をしています。かつては、エジプトで奴隷でした。その生活はあまりに過酷で、追い使うもののための苦しみや叫びを神が聞き、モーセを遣わしてエジプトから救ってくださったのです。なお追い迫るエジプトの軍隊の手から逃れさせるために、神は彼らを葦の生みの中に通した道を進ませました。ちょうどそれは私たちが洗礼を受けたのと同じだとパウロは言います。エジプトを出て荒れ野に行ってすぐに問題になるのは水と食糧です。神はモーセに杖で岩を打たせた。するとその岩から水が出てきました。あるいは彼らの毎日の食べ物のために、マナというパンを毎朝天から降らせたのです。それは、ちょうど私たちが聖餐でパンをいただき、ぶどう酒を頂くのと同じように、神が彼らを養ってくださいました。
神様の大いなる奇跡と、毎日このいのちを長らえさせてくださる、恵み深いご配慮で生かされていた。しかし、彼らがこれから始めるのは、40年に及ぶ荒れ野での旅です。神に救って頂いた新しい人生だけれど、実はその後の方が試練は多かった。その時、どうしたのか?あるときはむさぼる食欲に支配されて、肉がないと騒ぎ、エジプトの方が食糧事情は増しだったと駄々をこねます。またあるときは、モーセがしばらく不在だったので不安になり、自分たちを安心させるために金の子牛を造ってこれを拝みました。パウロは、端的に「偶像を礼拝してはいけない」と言います。偶像とは、自分たちの不平不満や不安を解消するためにこしらえた、自分の願望を繁栄したもののことです。私たちは、偶像を礼拝してはいないでしょうか?むさぼる心や自分たちの不安に負けてはいないでしょうか。試練の時、そのために生まれる不平不満をごまかすために、偶像礼拝に逃げ込んではいないでしょうか?
そんな私たちに、福音が告げられます。「神は真実な方です」と。私たちが誠実でなくとも、神は真実でいてくださいます。だから、キリストは十字架にまで進んだのです。そのことがよく分かれば、試練の中で偶像に逃げる必要はない。神の真実であるキリストこそ、逃れの道なのです。