今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙10:19~39、民数記10~11、詩編83
民数記10~11;
銀のラッパが造られました。出陣の合図として吹かれます。それだけではありません。「あなたがたの喜びの日、定められた祝いの時、毎月一日には、焼き尽くすいけにえや会食のいけにえを献げ、ラッパを吹き鳴らしなさい(10:10)」と言われているとおり、礼拝や祈りのしるしとしても吹かれていたようです。
ヨハネの黙示録にもラッパの音が登場します。「主の日、私は霊に満たされ、後ろの方でラッパのような大きな声を聞いた(ヨハネの黙示録1:10)」。ここではラッパそのものではなく、ラッパのようなとなっています。「その後、私が見ていると、開かれた扉が天にあった。そして、先にラッパのような声で私に語りかけた、あの最初の声が言った(4:1)」。ここでは、最初のラッパのような声が再びヨハネに語りかけています。その声は天での礼拝をヨハネに見せます。最初に登場したときも、主の日のことです。ラッパのようなこの声は、ヨハネを礼拝に招きます。
パイプオルガンの中には、ラッパの音を出せるものもあるそうです。私みは、いつか礼拝の前奏にラッパを取り入れてみたいという夢があります。ラッパの音が私たちを礼拝に招き、私たちの旅路の出発を告げるのです。そう考えると、ラッパの音は後奏にもふさわしいと言えると思います。
しかし、ラッパの音に導かれて実際に始まった神の民の旅路は、決して理想的なものではありませんでした。すぐに飢えと渇きのために不満が噴出します。毎日の衣食住のことと信仰生活とは、一つであると改めて思います。11:4の「民の一部の輩が飢えと渇きを覚え」の「飢え」という単語に、聖書協会訳では注が付き、「直訳:欲望に駆られて」と書いてあります。私たちの信仰生活は、いつでも、欲望や貪欲と隣り合わせです。だからこそ、悔い改めつつ、この歩みは進みます。主なる神様の御前に帰って悔い改めるとき、私たちは、もうすでにキリストを下さって赦しの福音に招いてくださっている神の、ラッパのような招きの声を聞くことになるのです。
民数記10~11;
銀のラッパが造られました。出陣の合図として吹かれます。それだけではありません。「あなたがたの喜びの日、定められた祝いの時、毎月一日には、焼き尽くすいけにえや会食のいけにえを献げ、ラッパを吹き鳴らしなさい(10:10)」と言われているとおり、礼拝や祈りのしるしとしても吹かれていたようです。
ヨハネの黙示録にもラッパの音が登場します。「主の日、私は霊に満たされ、後ろの方でラッパのような大きな声を聞いた(ヨハネの黙示録1:10)」。ここではラッパそのものではなく、ラッパのようなとなっています。「その後、私が見ていると、開かれた扉が天にあった。そして、先にラッパのような声で私に語りかけた、あの最初の声が言った(4:1)」。ここでは、最初のラッパのような声が再びヨハネに語りかけています。その声は天での礼拝をヨハネに見せます。最初に登場したときも、主の日のことです。ラッパのようなこの声は、ヨハネを礼拝に招きます。
パイプオルガンの中には、ラッパの音を出せるものもあるそうです。私みは、いつか礼拝の前奏にラッパを取り入れてみたいという夢があります。ラッパの音が私たちを礼拝に招き、私たちの旅路の出発を告げるのです。そう考えると、ラッパの音は後奏にもふさわしいと言えると思います。
しかし、ラッパの音に導かれて実際に始まった神の民の旅路は、決して理想的なものではありませんでした。すぐに飢えと渇きのために不満が噴出します。毎日の衣食住のことと信仰生活とは、一つであると改めて思います。11:4の「民の一部の輩が飢えと渇きを覚え」の「飢え」という単語に、聖書協会訳では注が付き、「直訳:欲望に駆られて」と書いてあります。私たちの信仰生活は、いつでも、欲望や貪欲と隣り合わせです。だからこそ、悔い改めつつ、この歩みは進みます。主なる神様の御前に帰って悔い改めるとき、私たちは、もうすでにキリストを下さって赦しの福音に招いてくださっている神の、ラッパのような招きの声を聞くことになるのです。