2019年3月24日日曜日

コリントの信徒への手紙一10:23-11:1「すべて神の栄光を現すために」


 ある社会学者がこんな話をしておられるのを聞きました。私なりに要約します。現在の日本の10から14歳の死亡原因の第一位は自殺。国際的な調査で、日本の子どもは極めて自己肯定感が低いことが分かっている。その一因は親が損得で結婚し、子どもの頃から勝ち負けを押しつけてきたから。更に、その背景は社会が超越を知らないことだと分析します。社会を超える存在を知らないから、狭いコミュニティの中での損得勘定だけで生きている、と言うのです。なるほどと思うのと同時に、私もひとりの親としてまたキリスト者として、とても痛みを覚える話でした。
 「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を求めなさい」とパウロは訴えます。自分の利益や損得を追い求めてしまうのは、やはり私たちが私たちを超越した存在、神を忘れてしまっているからなのではないでしょうか。そもそも、この話はコリント教会での食事を巡る混乱から始まっていました。かつて信じていたギリシアの神々の神殿で献げられた肉を食べて良いのか悪いのか、ということが論点です。ある人は強い良心の咎め覚え、食べている人の存在が躓きになっていました。その迷いは信仰の弱さから来ていた。ところが他方では強い人がいて、彼らはそもそも偶像の神などいないのだから肉を食べても差し支えないと考え、実践していた。それに対してパウロはここでも再び言うのです。「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。」この「造り上げる」というのは、私たちを教会として建て上げるという意味です。共に神の前で生きる共同体をつくりえないのです。なぜか?私たちの自由な、正しい行いであっても、愛から生まれたものとは限らないから。愛を欠いたとき、私たちは神を忘れ、自分の利益や損得のために動いてはいないでしょうか。
 25から29aは、本当に自由な姿だと思います。深い信仰の確信と、愛から生まれた振る舞いです。偶像の肉を食べることも食べないことも、自由です。自分のこだわりではなく、隣人への配慮によって生きています。しかもそれは八方美人に相手に取り入ろうとするのではなく、「地とそこに満ちているものは、主のもの」という信仰から生み出された振る舞いなのです。私たちの本当に大切にする基準、目当ては、「すべて神の栄光を現すためにしなさい」というパウロの奨めの言葉に集約しています。自分の利益のため、損得勘定のため、自己実現のためというのは、自分の栄光のための生き方で、それは結局不自由です。自分の良心やこだわり、したいこと、計算に縛られている。でも、私たちは自由になれる。なぜか。あるいは、そこで求める神の栄光とは何か。
 「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」どのようにキリストを真似たのか?「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしている」と言うのです。高みを目指して努力し、がんばるというのではなくて、本当にどうしようもないこの罪人の私のために十字架にかけられたキリストの栄光に倣う。私が十字架のキリストに赦され、それだけで生きている。その姿を真似てほしいとパウロは呼びかけています。十字架のキリストこそ、神の栄光なのです。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...